【金沢市内】
板(木端)屋根に石をのせた家のことですが、昭和30年頃までは、片町の大和デパートの屋上から眺めると、河原町や大工町、旧十三間町の町々にも多く見られ、当時のことが書かれているものには、一寸眉唾ですが、金沢市内の約半数の家々が“板葺き石置き屋根”だというのを見たことがあります。
(板葺き石置き屋根)
昭和2年(1927)の彦三大火以降、市の奨励もあって、徐々に、“トタン板葺き屋根”や“瓦葺き屋根”に変わっていったそうですが、戦災の遭わなかった金沢での普及は遅々と進まず、私の知る30年代の金沢では、まだかなり残っていました。
(東山の清水邸・石置き屋根をトタンに葺き替え)
さすがに20数年後の記録には数十軒だけになってしまったと書かれていて、現在は復元されたものを除けば、野町の「森紙店」だけになりました。
(森紙店)
(野町・森紙店:江戸時代末期の建築と推定され、塩乾物の商家を明治中期に森家が購入して紙販売を営んできたそうで、現在、市街地に唯一残る板葺き石置き屋根の建物です。昭和58年4月11日金沢市保存建造物に指定されています。)
しかし、現在も浅野川左岸の旧岩根町や堀川、右岸の東山あたりの古い町家では、板葺きの上にトタン板を葺いた家や板葺き屋根の上に勾配を急にしてもう一つ屋根を作りその上に瓦をのせた家がかなりあります。
また、復元された建物には、長町の足軽住居跡や湯涌江戸村で見ることができますが、正倉院の文書にも出てくる、こば(木端)板を何枚にも剥ぐ(へぐ)技術は、金沢ではすでに途絶え、7年ぐらいで腐るという板葺き屋根が、現在も残されている事は貴重ですが、維持管理を思うと、一口に文化財の継承といっても、当事者に多大な負担が強いられていることに気付かされます。
(旧観音町のひがし茶屋休憩館は元石置き屋根)
金沢の“板葺き石置き屋根”の歴史を振り返って見ますと、藩政初期、瓦葺は、城内の御殿(門や櫓は鉛葺きもある)神社仏閣で、“人持組”は柿(こけら)葺き”平士以下、御歩以上は”板葺き石置き屋根“足軽、小者は”藁葺き“という風に決まっていたそうです。
(瓦は、製造量が少なかったためでもあると思いますが、土で作った瓦を頭上に戴くことを嫌ったという説もあります。)
”町家“は平士、御歩と同じく”板葺き石置き屋根“で町家は瓦葺きにする事は許されていなかったそうですが、武家の屋敷も町家も時代と共に、決まりが次第に崩れていったと聞きます。
(復元された長町の足軽屋敷)
復元された足軽屋敷は藁葺きではなく”板葺き石置き屋根“になっていたり、長町の大屋邸が明治になってから石置き屋根だったものを”瓦“に葺き替えたのだと聞くと、そうなんだ!と何となく納得します。
(大屋邸)
(長町・大屋邸:正面に高く広い妻面のあるアズマダチの屋根は、元々は板葺き石置き屋根でしたが明治時代に瓦屋根に葺き替えられました。武家屋敷を構成した主な要素を全て残している貴重な遺構です。平成15年4月21日に金沢市保存建造物に指定され、国の登録有形文化財にもなっています。)
(高木糀商店)
(東山・髙木糀商店:大屋根は瓦に葺き替えられたもので、かつては板葺きの石置き屋根でした。全体として典型的な古町家の様相をとどめており、貴重な建物です。平成14年4月22日金沢市保存建造物に指定されています。)
“石置き屋根”の話が出てくると、かなり前になりますが、日本語を話すスイスからのお客さまに、覚え立ての“石置き屋根”の話をすると、スイスのアルプス山麓にも”石置き屋根“の家があるとかで、日本だけのモノだと思い込んでいた私の世間の狭さを思い知らされたことが思い出されます。
つづく
(ひがしのトタンの家)
註:”風返し”は、板葺き石置き屋根の先端にある板で、屋根に敷いた板が下からの風で飛ばないように付けられたもの。
参考資料:金沢市公式ホームページhttp://www4.city.kanazawa.lg.jp/ など