【金沢・浅野川界わい】
金沢の幕末の古地図には、今も残る町や小路、橋等がかなり正確に描かれています。古地図の浅野川界わいを眺めていると幕末に書かれて庶民の日記「梅田日記」の場面が浮かんできました。何回かこのブログで記事にしましたが、調べてみるとほとんどが断片的で、話の流れが書かれていないことに気づきました。
(今回より、「梅田日記」を物語として捉え、地図の上で当時の金沢の町々をたどり、その地図に沿い町歩きをします。)
(安政年間の浅野川界わい古地図・薄茶色は町人町、薄緑は土手)
≪梅田日記とは≫
今から約140年前の金沢町人能登屋甚三郎(明治4年(1872)2月梅田甚三久に改名)が、書き残した日記です。甚三郎は町人ですが、西町門前にあった算用場内の十村詰め所に勤め、農村支配や農政、年貢収納などを務める扶持人十村の金沢詰の代わりをする「番代」の手伝で「番代手伝」という補佐役(事務職)をしています。
日記が書かれた頃は新婚で並木町に住み、生活には年間1560目必要な時代に600目の薄給ですが、副業で生活費を補いながら、結構、豊かに過ごして居る様子が読み取れます。また、日記には、甚三久や当時の人々の卯辰山の遊山や茶屋町での遊興、寺院への参詣など幕末の庶民の生活がうかがえ、登場する人々や住んだ町の記述も多く見られ当時を知る上で貴重な資料です。
「梅田日記」に登場する人や関連する家も、それより約50年前の文化8年(1811)の町絵図から発見できるのはほんの僅かに過ぎません。昔も今も“十年一昔”といわれるように町も町家も生き物のように常に更新されています。
(文化8年(1811)の尾張町界わいの金沢町絵図の一部)
≪尾張町≫
利家公が尾張より召し連れた下人が移住したとか尾張荒子に御用向を承る町人共を召寄せ、ここに住まわせたなど町の由来には諸説ありますが、尾張荒子から移住したといわれいるのは大阪屋丹斎や紙屋庄三郎(中町尾張町木戸側、散算用聞役)、現存する印判の細字佐平の名が残っていて、藩政期を通して金沢町の有力町人が集住していました。慶安4年(1651)には町年寄役として当町の森下八左衛門(森八)・津幡屋与三右衛門の名が「国事雑抄」に載っています。文化8年(1811)の町名帳には家数72。町内には由緒町人が多数住んでいます。明治の初めに書かれた「金沢古蹟志」には、「旧藩初以来、旧家の町人多くといえども、今時に至りその家に居住して子孫連綿せしは、実に僅々四,五人に過ぎない。」と記されています。
●ガイドネタ
1、黒梅屋平四郎(松田文華堂)は、藩政期には森八の隣(枯木橋側)にあり、文化年間、九谷再興のため藩に呼び寄せた青木木米や江戸時代の著名な経済学者海保青陵の逸話が残る。
2、江戸三度の飛脚宿、現在の石黒ファーマシービルのところか。
3、富裕町人の町に番代や(越中屋又一の父でかって御郡番代だった家が文化8年の町名図にある)や甚三久の知人が住んでいます。
4、松田東英:医師、本名は就、芹齋と号した。幼いときから読書を好み医術を習う。金沢の医師松田氏の養子となる。江戸・長崎で学び、帰って医業を継ぐ。天保年間自分で顕微鏡や望遠鏡を造っりました。町の科学者。1847没。(記述は若親司)
(梅田日記の記述)
・元治2年4月2日、那谷寺参詣の折、動橋の茶屋で尾張丁の眼科医の松田(東英)の若親司と今町上の石屋のせがれと行き交う。(文化8年の絵図には尾張町に松田という町医者(松田寿莫)はあるが、上今町には石屋なし)尾張丁には、新丁越中屋又一の父親といわれる又七(御郡番代)の住居が見える。他、いくつか記述あり。
≪新町≫
尾張町の拡大に伴って割出地として町立てされたことに由来するといわれています。延宝8年(1680)には町内の水溜(九間一尺五寸・現病院)前に市場が開設され、のちにこの市場が近江町青草辻に移りました。文化8年(1811)には家数111軒、うち商いでは、米仲買7軒、遠所旅人宿7軒、江戸三度3軒などが特徴で組合頭は3人、中に狂言師野村万蔵が見えます。また、下新町は、明治の文豪泉鏡花出生地として知られています。
●ガイドネタ
1、浅野川の上側を下新町という。
2、伊勢の御師福井土佐の止宿所、荘厳な神殿飾りが明治4年までありました。
3、現在の鏡花記念館前辺りに芝居小屋第四福助座(梅若)があった。
4、鏡花が通った日曜学校、ボードルとの逸話など。
(梅田日記の記述)
・元治2年4月2日、山代の通りにぎやかで、村端で向こうより芸者風の娘2人が来るのに出会う、彼女達は芸者ではなく、新丁の紙屋仁左衛門の娘だという事で仰天した。
・元治元年3月20日石崎市右衛門殿儀、母方おじ当町野村万蔵、一昨十八日病死いたし候旨ニ而、忌引・・(後に、万蔵死去にともない4月1日2日の観音院の神事能に穴が空いた記載あり)
他、番代見習の越中屋又一が住んでいたことや表具師、料理屋など記述は多い。
(今の下新町、上新町)
≪主計町≫
藩政初期、富田主計重家一万石の人持組頭の上屋敷があったと伝えられていますが、金沢で一番低地にありいささか疑問が残ります。文化8年(1811)には家数42軒。元和3年(1617)に建立された源法院や古手買9軒、苧綛織3軒、御領国旅人宿、町医1軒や蕎麦屋が見えます。その頃は町人町であったようです。明治2年、茶屋町が置かれます。久保市宮から主計町へ下る坂が「暗がり坂」、日中でもうす暗いことからこの名がついた。名付けたのは泉鏡花だといわれている。主計町から新町へ抜けるもう一つの小路にある階段坂が「あかり坂」です。
●ガイドネタ
1、慶応2年7月13日の浅野川・犀川の大洪水。主計町はすべて床上四~五尺、並木町は床より二尺から一尺。
2、洪水の付りとして:100年前の浅間山(天明3年のこと)以来の大洪水だというものあり、また一説にこの間、医王山に怪しき者が登った。二俣の者が見つけ留めるが投げ飛ばされた。その早業は人間とは思えなかった。その夜から医王山が鳴り出した。湯涌くに湯治の者はその音を聞いて早々に帰った。洪水は、その怪しき者の仕業だと、市中では取り沙汰されている。
3、(あかり坂)坂に名づけの依頼を受けていた作家の五木寛之さんが、2008年オール読物4月号の小説で、この坂を「あかり坂」と名付けました。小説は「金沢ものがたり」。
2008年、雑誌でこの坂のことを「あかり坂」と命名し小説を書く。以後あかり坂を言われるようになった。
(梅田日記の記述 )
元治元年8月26日、風呂の帰り、主計町でかやくそばを食いにいく。3件の記述あり。
慶応2年7月13日浅野川の大洪水
≪母衣町≫
西尾隼人(4000石)屋敷跡、西尾隼人は、大阪軍覚帳によると「加州勢使番黒母衣衆」と言う記述があります。母衣町は藩政初期、母衣衆(使番)の組地だったのでしょう。母衣衆は万治3年より一代奉公となり、その後、名称の無くなるが、町名は残り家数は19戸、(内武士、小者は7戸) 西尾の屋敷跡は、大阪商船社長で政治家の中橋徳五郎の屋敷と久保市乙剣宮になり、今、中橋屋敷の所がNTT病院になっています。
北国新聞連載された小説「炎天の雪」のモデル大盗賊白銀屋与左衛門(明和元年(1764)没)。母衣町の住人であったことは「泰雲公=10代前田重教、年譜」に書かれています。
●ガイドネタ
1、晦日そばの話
2、甚三久の時代にはすでに中の橋が一文橋としてあった。
3、母衣町川(旧西内惣構堀)辰巳用水の一部。金谷門あたりから金谷出丸(尾山神社前通り)を通り、近江町・旧新町を巡り、旧母衣町(彦三町・尾張町)から浅野川へ流れていた。
参考:「母衣衆」には黒母衣衆と赤母衣衆があり位は黒母衣衆が上、金沢の旧町名に母衣町(現在の尾張町)には、かつて母衣衆がいた。
母衣衆の主な任務は、伝令、敵方へ使者、偵察、戦功の監察、などでエリート集団
(梅田日記の記述)
・元治2年2月29日、壱徳利持参、母衣町の蕎麦屋へ晦日そば食いに妻しなを連れて行くなど。
参考文献:「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行など