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金沢・江戸

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【浅野川大橋→小橋・下堤町】
江戸の町年寄の一人喜多村彦右衛門は、文禄の始めまで、金沢の下堤町に住み、藩主前田利家公の信頼も厚く、金沢の町年寄役を勤め町に関する全てを任されていたといいます。父は彦次右衛門といい、生れは今の津幡町、旧七黒谷北村というところで、先祖は富樫一族に繋がる家の出だといわれています。


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(今の下堤町)


当時、天下は豊臣秀吉公。前田利家公が大阪在府の頃、ご機嫌伺いに金沢の町人200人が参上したといいます。その長(おさ)喜多村彦右衛門が本陣へ馬上のまま乗り入れたのを見た徳川家康公があまりにも堂々としていたのが目にとまり、利家公に“江戸のまちづくりのために”と申し出、利家公も断り切れず約束し、彦右衛門は江戸に移ったと伝えられています。


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(下堤町の看板)


江戸に徳川家康公が入城したのは、天正18年(1590)頃で、利家公が金沢のまちづくりを始めた7年も後のことになります。当時の江戸はまだ200軒ぐらいの寒村で、家康公に従って江戸の入った「奈良屋(館)」「樽屋」「喜多村」の“三人の町年寄“の喜多村家に彦右衛門が2代目として婿入りし、金沢は弟次郎兵衛に譲ったといいます。


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(家康公)


当時のまちづくりは、ハードもソフトも一歩も二歩も進んでいた金沢は、モデル地区だったのでしょうか、また、彦右衛門がリーダーとしての卓越した能力の持ち主だったのでしょうか、今となっては何ともいえませんが、江戸の町には金沢のまちづくりのノウハウが活かされていたことは確かなようです。


(今の金沢は、かなり東京風ですが、昔は江戸が金沢化していたのでしょうか・・・。)



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江戸初期の金沢と江戸の地図や仕組みを見比べてみると、よく似たところがあります。後付けでしょうか?日本橋の喜多村家の近くの「浮世小路」の小路(こうじ)を金沢弁の“しょうじ”といっていたと聞いたことがあります。多分、辺りに金沢の出身者も多かったのでしょう、地名まで江戸の町に金沢がなじんでいたのかと思うと“へー、ホント”と勝手に納得しています。



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(幕末の日本橋・奈良屋(館)・樽屋・喜多村・江戸切絵図の模写)


昔、映画やテレビでよく見た“江戸の町年寄”は、町奉行の下とはいえ、江戸草創期以来の旧家で、その格付けは、奈良屋(館)・樽屋・喜多村の順、三家は代々世襲で勤めました。居住地は本町一丁目(奈良屋)・二丁目(樽屋)・三丁目(喜多村)の本町通りに面した角地にあり、武家と同様に住居は役宅を兼ねており、これを町年寄役所と呼び、様々な執務を執り行っていたそうです。



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(利家公)

江戸の町年寄は、町人の最上位で、武士と同等の権威を与えられていたといいます。しかも、惣町の支配を行うにあたり、拝領した屋敷地の表側を他の町人に貸し、その地代収入を職務に使う経費にして、他にも本町以外に3家でそれぞれ拝領地を賜り、そこの地代収入も得ていたといいます。また、服従しないものは江戸の住めなくなるという凄い権限を持っていたともいわれています。


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(藩政期の金沢下堤町)


金沢の北村(喜多村)は、金沢の町年寄も勤めた家柄ですが、三代の彦左衛門の時まで北村屋を名乗り、五代藩主綱紀公の頃、故あって北村の「北」の字は、敗北の義にて、よろしからずという事から、「喜多」の字に改めたといわれています。
(詳しくは金沢古蹟志に)



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(堤町の由来を刻した石柱)


森田柿園著「金沢古蹟志」には、“代々下堤町東側に居住し、薬種商を商業とす。慶長の初より、此の邸地に居住すと云伝へたり。明治の廃藩の際売却して退去せり。”とありますが、文化8年(1811)の金沢町絵図にも町名帳の下堤町にも見当たりません。
幕末に移住したのでしょうか、私が見落としているのでしょうか・・・?


参考文献:森田柿園著「金沢古蹟志」 ウッキペディアフリー百科事典など


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