【常盤橋→浅野川大橋】
味噌蔵町の町名は、昭和の町名変更で消滅しましたが、“味噌蔵町(みそぐらちょう)は小学校や公民館の名称として、藩政初期から続く由緒ある名前が今も顕在です。この辺りは、藩政期は武家地で、公式な名称では無いが通称で”味噌蔵○○丁“と呼ばれていたものと思われます。
(奥村権之佐屋敷跡・ここに味噌蔵が有りました)
(武家地に公式の町名が無いのは、藩臣は各軍事編成上の組分けで、番頭、組頭がおかれたので、藩主と各藩臣との上意下達は、組支配制によって行われ、公式町名が無いのは居住地による人的支配の必要がないからで、町人は居住地による町奉行支配で、公式な町名が必要とされました。武家地は明治になり正式に立町される。)
“味噌蔵“の町名由来は、藩政初期、当地に軍用の味噌を蓄える蔵があったことに因むといわれています。その“味噌蔵”は「延宝金沢図」には既に無く、書かれているものによると旧町名の味噌蔵町間の町に面した九人橋下通の角家奥村権之佐屋敷のところにあったと伝えられています。
(藩政期、金沢には18有った侍町は全て通称で、書き表すときは、「町」とは書かず「丁」と書いたといいます。真偽は分りませんが、出羽1番丁、彦三1番丁、馬場1番丁、西丁など、例外は長町1番丁、安房殿町など、「丁」は、武士なので田を取って「丁」と書いたと聞いた事があります。なんとなく説得力がありますネ。)
(九人橋下通の武家屋敷)
(武家屋敷の説明板)
ある古文書に、元和7年(1621)、その“味噌蔵“の古材で、今も新竪町にある徳栄寺の御堂が再興されたと書かれているとか、であれば、それより前に”味噌蔵“は廃絶したものと思われます。それにしても約400年も前に無くなった”味噌蔵“に因む町名で呼ばれていたことを知ると、ウッソ~。保守的~。ですが、これこそが、”歴史と文化に責任を持つ町金沢”の真骨頂なのでしょう。
(旧町名”味噌蔵町“の復活も近いかも・・・。)
(九人橋辺り・新築中のガラス貼りの裁判所(新金沢らしさのガラス貼り)
明治5年(1872)頃、北側を味噌蔵下中丁、同片原町、真ん中は九人橋下通、南側は味噌蔵町上中丁、同間の丁、同裏丁になりました。
(千宗室屋敷の説明板)
旧味噌蔵町片原町は、今は暗渠になっていますが、藩政期の古地図によると、道路の3分の2以上も東内惣構の堀になっていて、片側が惣構の藪で、一方は武家屋敷が立ち並んでいます。千宗室屋敷跡があります。寛文6年(1666)五代藩主綱紀公に150石で召抱えられ、茶道奉行を勤めたと伝えられています。同じく旧味噌蔵町片原町には、寺島蔵人屋敷跡もあり金沢城にも近く城下町の武家地の佇まいを今も残る閑静な町です。
・味噌蔵町下中町(みそぐらちょうしもなかちょう)
現在の町名 大手町、兼六元町、橋場町、尾張町1丁目
(町名変更S41.2.1/S45.6.1)
(旧下中町・藩政期は雨の日に一方が傘を閉じたという狭い道でした)
・味噌蔵町片原町(みそぐらちょうかたはらまち)
現在の町名 大手町、尾張町1丁目
(町名変更S41.2.1/S45.6.1 )
(旧河原町・寺島蔵人邸)
・九人橋下通(くにんばししたどおり)
九人橋は東内惣構堀に架けられた橋で、橋番が置かれていて、十人並んで渡ると九人の影しか映らないという伝説から、橋の名がついたという。町名はここから生まれました。
現在の町名 兼六元町
(町名変更S41.2.1 )
・味噌蔵町上中丁(みそぐらちょうかみなかちょう)
現在の町名 兼六元町
(町名変更S41.2.1)
・味噌蔵町間の町(みそぐらちょうあいのまち)
現在の町名兼六元町
(町名変更S41.2.1 )
・味噌蔵町裏町(みそぐらちょううらちょう)
昭和30年に味噌蔵町東町
現在の町名 兼六元町、橋場町、材木町
(町名変更S41.2.1)
≪味噌蔵町小学校≫
明治39年(1906)8月に開校。明治43年(1919)から昭和22年(1947)まで、味噌蔵町小学校(旧味噌蔵町尋常高等小学校)は校下(区)の女児が通い、近くの材木町小学校は(旧材木町尋常小学校)には校下(区)の男児が通いました。
今の味噌蔵町小学校の校下(区)は、金沢の中心に位置し、金沢城跡(金沢城公園)・兼六園・尾山神社・白鳥路・浅野川など有名な名所旧蹟のお膝元です。6年生になると、姉妹校で毎年、修学旅行で訪れる加賀藩前田家初代の利家公の出身地名古屋市の荒子小学校6年生に、金沢城跡や兼六園へ自分たちでガイドブックを作りご案内します。
(味噌蔵町小学校の松本選手のフラフ)
卒業生には、劇団四季の振付師の加藤敬二さんやラピュタ・トトロ主題歌でおなじみの井上あずみさん、そしてロンドン五輪金メダリスト松本薫選手がいます。
参考文献:「角川日本地名大辞典 17 石川県」1981年:角川書店他