【石引2丁目→鱗町】
金沢の水車は、かっては小橋用水で利用され、今、児童公園に設けられた遺産としての木製水車しか見ることができません。金沢でも全国の水車同様、電動機や蒸気機関が普及するまで、揚水・脱穀・製粉・製糸・菜種油などに利用され、藩政期には、線香の製造や火薬の製造などに動力として使用されたという文書がありま。第2次世界大戦後には電動機や内燃機関の普及により国内では衰退します。むろん金沢でも同様でした。
(油屋源兵衛の水車があった言われるところ)
(元町の小橋用水の水車・2013年撮影)
(以前には石川県立歴史博物館にあった金沢製糸場の大型の水車の原寸大の模型がありましたが、今はありません。)
(金沢製糸場正面に水車が)
[水車の歴史]
動力機関としての水車は紀元前2世紀頃小アジアで発明されたといわれています。この発明は、水カエネルギーを最初に動力源としますが、生活に溶け込んだ動力手段としてギリシャにおいて紀元前に小麦の製粉に使われてきたといわれています。因みに歯車は紀元前3世紀にエジプトで使用されていたそうです。
日本では「日本書紀」によると推古天皇18年(610)3月、高句麗から来た僧が、「てんがい(碾磑)」という水車を伝えたのが初めとされています。日本最古といわれるものは鎌倉期(1290年代)伏見天皇宸翰「源氏物語抜書」の料紙下絵に宇治の揚水水車が描かれているそうです。以来日本の風土に同化しながら、揚水用や動力用として江戸時代中期(1700年代)には全国に普及したといわれています。
(「金沢の用水めぐり」より)
金沢では、前にも書くましたが、正保年間(1644~1648)に油屋源兵衛が菜種油を取るための水車や慶安4年(1651)波着寺横で藩直営の銃薬製造の水車そして文化2年(1805)亀坂で水車を利用して丹波屋(初代太田某)が線香場を操業するなど、辰巳用水の分流(今の勘太郎川系)で、揚水・脱穀・製粉・製糸以外に利用されているのが注目に値します。
(戦前の地図・勘太郎川の水車の位置)
今回は、明治期に勘太郎川で産業用の水車を拾い上げ、誰が何処で何をするために水車が利用されたかを調べて分ったことだけですが書くことにします。
(資料が少ないので、ご存知の方がいらっしゃいましたらご投稿お願いします。)
(旧百姓町の勘太郎川)
[百姓町の水車] 金沢市百姓町107(現幸町4-15)
葵製糸場の水車 明治24年(1891)に本多家の士族授産事業として製糸業操業。その後、同じ製糸業で柳水車(柳のドンド)となり柳有隣が経営します。明治34年(1901)2月、友田安清と実弟の吉村又男で友田組陶磁器顔料製造所を創業。倉庫風の建物の中で1馬力の鉄製水車が廻り、ハイカラ水車と呼ばれていたそうです。
(この奥の左側に旧百姓町の水車のあったらしい)
[友田安清]
日本の陶芸家であり実業家。加賀金沢藩士の子。旧姓は木村。内海吉造、岩波玉山に陶画を幸野楳嶺、岸竹堂に日本画を学び、更に美術工芸品貿易商でありデザイナーの納富介次郎に着画技法を、また、ゴットフリート・ワグネルに顔料調整法を学んだ。明治22年(1889)に石川県立工業学校教諭、明治32年(1899)から7年間、兵庫県出石の陶磁器試験所々長として出石焼の改良指導にあたる。その間、明治24年(1891)には金沢に実弟吉村又男が柿木畠に陶磁器工場友田組を金沢に起し、傍ら洋式顔料の製造を始め実弟・吉村又男と共同経営。明治35年(1902)には水車の動力を利用するため柳水車に移転。やがて林屋次三郎氏の林屋組に参加。林屋組は明治41年(1908)旧藩主前田家や筆頭家老の本多家らの援助を受け、地元有力者によって長町に日本硬質陶器株式会社(現ニッコー株)と改称し、友田安清は、明治41年(1908)以来技師長を務め製陶を指揮、主に海外輸出用の食器類を漸進なデザインと形状で製造し薄利多売方式で販売、そのほか内国博覧会などの審査員なども勤めた。大正7年(1918)7月死去。享年57歳。
(旧鱗町の勘太郎川・暗渠右側に長田の水車があったらしい)
[長田の水車]金沢市鱗町14(現本多町3丁目11-22)
長田伊三郎氏経営。当初の主力は、精米・製粉・友禅染用糯粉(もちこ)製造少々であったが昭和10年(1935)頃には、半々になります。水車は木製で、材質はクサマキ、直径7,2m、幅2,7m、マス間91cmで修理は家大工。昭和15年(1940)稼動停止。戦後、稼動しますが水量が少なく能率が悪いため昭和22年(1947)に電力に切り替えるが、昭和34年(1959)中止。
[岡田の水車]金沢市鱗町15(現本多町3丁目・・・)岡田某経営
[金田の水車]金沢市茨木町72(現本多町3丁目12-13)
金田徳蔵、先代金田常吉、2代金田常吉経営。明治6年(1873)操業開始。木製水車(クサマキ)精米・製粉。昭和17年(1942)企業合同で食糧営団となり、精米を中止した。昭和24年(1949)9月より電気動力にした。製粉のみと 森八の銘菓「長生殿」の糯米粉(もちこ)最中の皮用の糯米粉(もちこ)を製造。
(おわり)
参考文献:「金沢用水・こばし」調査報告前編 金沢市教育委員会 平成12年3月発行ほか