勘太郎川①笠舞用水!?
【石引1丁目→鱗町】現在、勘太郎川と言われているのは、起点が石引2丁目の風月堂の横から、かっての波着寺の塀沿いに流れる辰巳用水の分流が「ぢごく橋」の下から崖下にある旧一本松で、上(かみ)から流れてくる旧笠舞用水(現長谷川排水路)と合流し勘太郎橋を潜り、思案橋から鱗町で鞍月用水に合流する1,4kmをいいます。 (勘太郎川の起点・石引の風月堂)...
View Article勘太郎川②旧笠舞用水!?
【石引2丁目→鱗町】勘太郎川は、文化8年(1811)の金沢町絵図では、辰巳用水の中石引の35番目水門から波着寺の塀沿いを通り、ぢごく橋から谷を下り一本松までの流れを「御水戸捨水」と書かれています。その御水戸捨水は旧笠舞用水(藩政期の名称は不明)と合流し、勘太郎橋へと流れています。...
View Article勘太郎川③倉月用水??
【石引2丁目→鱗町】現在の勘太郎川の名称は、何時からそのように呼ばれていたのか?現地へ歩き、図書館や役所へ行き調べていますが、なかなか正解に至りません。そんな時、果たしてこんな事を調べて何の役に立つのだろうか?学者や役所の揚げ足を取るだけではないだろうか?と少し悩ましくなってきます。 (思案橋)...
View Article本多町界隈の一向一揆伝説③河合宣久
【出羽町→本多町界隈】昔から竪町の油屋多田家のご先祖は一向一揆の大将で、前にも書きましたが、その子孫油屋源兵衛が藩政初期、牛右衛門橋辺りで、油を絞るために水車を廻し、水勢が弱いので、今、鞍月用水といわれている犀川の油瀬木から鱗町までの玄蕃川(源兵衛川)を開削したといわれています。 (多田家五百年の歴史) (油車)...
View Article本多町界隈の一向一揆伝説④松田次郎左衛門
【出羽町・本多町界隈】大昔、松田家は京で北面武士だったと伝えられています。代々、聖徳太子(厩戸皇子)直作の木像が守り本尊だったといいます。松田家は、観應の頃(1350~1352)、加賀国に来て田井村に住み郷士になります。その聖徳太子直作の木像は、後に田井村の道場に移され、今も、たま~に新聞ネタになることもあります。...
View Article勘太郎川③倉月用水??
【石引2丁目→鱗町】現在の勘太郎川の名称は、何時からそのように呼ばれていたのか?現地へ歩き、図書館や役所へ行き調べていますが、なかなか正解に至りません。そんな時、果たしてこんな事を調べて何の役に立つのだろうか?学者や役所の揚げ足を取るだけではないだろうか?と少し悩ましくなってきます。 (思案橋)...
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【出羽町→本多町界隈】昔から竪町の油屋多田家のご先祖は一向一揆の大将で、前にも書きましたが、その子孫油屋源兵衛が藩政初期、牛右衛門橋辺りで、油を絞るために水車を廻し、水勢が弱いので、今、鞍月用水といわれている犀川の油瀬木から鱗町までの玄蕃川(源兵衛川)を開削したといわれています。 (多田家五百年の歴史) (油車)...
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