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勘太郎川⑤本多家下屋敷の外濠?ウソ!!

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【石引2丁目→鱗町】

ホント??今回、調べていて私が勝手に思ったことですが!?勘太郎川(倉月用水)は、延宝金沢図(167381でも全長1,4km。その内、約1kmが本多家の下屋敷の外側に位置し、合流する鞍月用水やお城の西外惣構も含めると、10万坪以上と言われた本多家下屋敷(家臣や分家の居住地で安房殿町〈家中町〉)を囲むように造られています。なにも外濠という大げさなものではなくても、他の町との区切りになっていたのではと思われます。

 

詳しくは 石川県立図書館 延宝金沢図 「検索」

 

 

(大乗寺坂より本多町下屋敷を望む)

 

 

それはそれとして、前回、書いたのは「思案橋」まで、飛んで「鱗橋」「鱗橋」を書きましたが、今回は、その間の2つの橋とその周辺の町や寺院にまつわる藩政期のお話です。

 

 

 (黒い線が今の勘太郎川・鞍月用水・西外惣構の堀)

 

(百姓町の標柱)

 

[百姓町]

一向一揆時代には、上石浦村の村落(下石浦町は今の香林坊辺り)でしたが、藩政初期、金沢の町地が追々広まり、村民は町人のなり、村落には町家が建ち、町名も百姓町と呼ぶようになったと伝えられています。

 

(石浦村は、石浦郷七村の一つで、一向一揆時代は安房殿町より長町にかけ法船寺馬場(現中央通町)まであり、藩政期にはことごとく武士、工、商の家屋敷となり、旧下石浦村の裏町には百姓家が長く残り、「金澤事蹟必録」にも石浦村百姓は“34軒残れり”とあり、また、「亀尾記」には、今、田地の草高は「五っ免」で、わずか29名遺れり、その草高は他村に組み込み、その農民も町人となり、その地を百姓町と称したというと書かれているそうです。「参考:金澤古蹟志」)

 

 

(今の法然寺橋)

 

[法然寺橋]

現在の橋(現遊学館高校前)には、橋名は何処にもありませんが、「金澤古蹟志」や「稿本金澤市史」「加能郷土辞彙」にも書かれていますが、藩政初期の石浦神社の「冩絵図」には法然寺が描かれていて、その前に橋が描かれています。法念寺橋、百姓橋ともいわれていました。

 

 

(石浦神社の「冩絵図」)

 

影向山法然寺は、浄土宗西山禅林寺派。開祖は屋譽貞雲和尚で慶長8年(1603)建立。百姓町(現幸町)の今の勘太郎川(倉月用水)の袂にあり、9代来空の享保15年(1730)に現在地(菊川2丁目38)に移転しました。改作所旧記には、寛文(16611673)の頃、犀川川下(仁蔵辺り)に寺があり、“ねい”という女が放火し、寛文6年(1666416日、犀川川下の法然寺下川原で釜煎にされたとあるそうですが、寺記には寺がそこに有ったことも放火のことも記載がなく伝承か・・・。「参考:金澤古蹟志」)

 

 

 (お銀小金の地蔵さん)

 

 「伝説“お銀小金”」

法然寺に伝わる物語に、「お銀小金」の伝承があります。粗筋は血のつながらない姉妹同士の深い人間愛を描いています。加賀藩士の父が江戸詰めで留守の間、お銀は継母にいじめられ、ついに犀川の河原に掘られた深い穴につき落とされたという。母が違うとは言え、お銀を慕っていた妹の小金は、お銀の居場所を探し当て、自らも穴に飛び込んで果てたといいます。継母は、その死を知ると「わが子かわいと思えば他の子こそ大切に」と改心し、懺悔し自ら髪を切って子供たちの冥福を祈る長い巡礼の旅に出たというお話です。

 

このお話を有名にしたのは、泉鏡花の名作「照葉狂言」の冒頭に主人公の少年(貢)が子供の頃、“おばさんの語り”として聞いた「お銀小金(照葉狂言では阿銀小銀のお話です。

 

青空文庫:「照葉狂言」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4561.html

 

金澤古蹟志では・・・

小金之墳墓は、「法然寺境内の卵塔場(墓場)にあり。旧伝にいう。昔、この地辺は法島河原で、その犀川の河原だった頃、此の所に於いて男女情死す。“こきん”はその頃の娼妓で、男女共に白接束にて水盃をし、いさましき体にて情死していたと。則ちその所に男女合葬せし墳墓是なりと言い伝えたり。共の年月等は伝承せる・・・とあり、その頃は法然寺がこの地に来てはいない」云々と書かれていています。「お銀小金」の話は後に子供に異母姉妹の情愛を伝えるために創作されたもののようです。「参考:金澤古蹟志」

 

 

 

(石浦橋の橋名板)

 (石浦橋)

 

[石浦橋]

法然寺橋から本多家下屋敷の境界を示すように勘太郎川(倉月用水)が流れ石浦橋に至ります。藩政期の橋名は何と言ったのかは定かではありませんが、本多家下屋敷の一つの出入口だったと思われます。橋を渡ると150m先に一向宗慶覚寺があり、左右に繋がる街は、かって下屋敷の買い廻り品の店が建ち並び、また、慶覚寺の門前町だったことが窺えます。また、橋の欄干は上(かみ)の片方だけで、下(しも)は暗渠になっていますので欄干がありません。確か、昭和30年代には開渠で、右側が自転車と人が通れるだけの細い道だったような記憶が蘇ります。

 

 (旧百姓町の通リ・突き当たり慶覚寺)

 

(つづく)

 

《本多町界隈のGoogleマップ》
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82/@36.5548438,136.6600293,17z/data=!4m5!3m4!1s0x5ff83655468566c3:0x8df155c46fde6215!8m2!3d36.5613254!4d136.6562051

 

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻12・巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

 


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