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勘太郎川④倉月用水??

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【石引2丁目→鱗町】

今さら!!でもありませんが、好奇心に駆られた事を調べていると、つい同じ所に何回も行ったり、本や文書であれば、同じ本の同じ項目を何回も読み返してしまいます。そのためか周辺が見えなくなったり、堂々巡りが始まったりますが、それを繰り返していると「ヘイ!!そうだったんだ!!」と気付くこともあり、新たな発見に繋がっていきます。最も“新たな発見”と言っても、私のような素人にとって新しいというだけで、5万と居るご存知の方には、新しくも何でもないのでしょう・・・けど。

 

  

(今の思案橋・左の小路)

 

今回、勘太郎川を調べていくうちに「金沢古蹟志」「加能郷土辞彙」を何度も読返し、あっちこっちにまたがり書かれた記述を組み直して読んでみたりしても、気付かないことも多々あります。厄介なのは、思い込みという先入観から誤謬(ごびゅう)だと決め付けていることが、見逃しの原因のようで反省しきりです。

 

 

(バス停・思案橋)

 

その際たるものが、今回の勘太郎川で、藩政期には倉月用水と言われていたことでした。これなども“知る人ぞ知る“のでしょうが、私の知る限りでも「金沢古蹟志」「加能郷土辞彙」にも誤りもあり、その文中にある倉月用水と言うのは間違いだという見方をしていました。少し考えて見れば、森田柿園氏も日置謙氏も金沢の人で、しかも森田柿園氏は近くの柿木畠に住んでいたので、倉月用水を間違える筈がないのです。

 

(「金澤古蹟志」の記述は後程引用しますが、鱗橋の項に玄蕃川と倉月用水が鱗町で合流するという件(くだり)があり、やっと納得しました。)

 

  

(思案橋から勘太郎川) 

 

 

以下は「金澤古蹟志」「加能郷土辞彙」の関係箇所から引用します。

 

[倉月用水]

犀川の金沢を貫通する間に於いて、その右岸油堰から引水し、厩橋から長町川岸に向かうてながれる。金沢牛右衛門橋油屋源兵衛の書上に、もと岩谷牛右衛門上地に防火用の水溜があったのを、正保年中先祖與助が請ひ受けて、堀の跡に油車を建て、川を穿って常水を通じた。それが川下八千石の地を養って倉月用水と呼ばれることになったと。この田地の石川郡西念新保等十三ヶ村に亙るものである。「加能郷土辞彙 p267

 

 

(牛右衛門橋と金澤町家情報館)

 

 

上記、加能郷土辞彙には、倉月用水起点が油堰(油瀬木)のように書かれていますが、明治に書かれた金澤古蹟志には、倉月用水という項目はありませんが、以下に引用する玄蕃川や鱗橋などに倉月用水の記述があり、それらによると倉月用水は、今の勘太郎川が本流だと書かれています。

 

倉月用水が、今の鞍月用水の「鞍月」ではなく「倉月」と書くことについてはよく分りません。)

 

 

 (天保期の勘太郎川と玄蕃川)

 

 

[玄蕃川]

金澤古蹟誌には「此の川は、川上覚源寺の尻地なる犀川の川除に水戸口を附け‘犀川より用水を取れり。此の水戸口をば油瀬木と呼べり。此の下流は即ち玄蕃川にて、百姓町通りを流れ、鱗町にて倉月用水川へ合併し、油車へいづる成り。昔、油車屋源兵衛といふもの、油車の地に水車を取建てける時、倉月用水のみにては水勢弱きとて、更に犀川より用水をせき入れ、その流水を百姓町へ通し、油車にそそげり。故に彼の堰をば油瀬木と呼び、用水川をも源兵衛川と俗称せしを、後人誤って玄蕃川と呼べりとぞ。一説に、昔佐久間玄蕃のとき、この用水が通ぜり。故に玄蕃川と称すといえども、非也。後人の附會なるべし。と書かれています。「金澤古蹟志 第5編 13P57より」

 

(上記によるとは、今、鞍月用水起点の油瀬木から鱗町で今の勘太郎川と合流するまでの流れが「玄蕃川」だという事が分ります。)

 

 

(川御亭の標柱)

 

[川御亭]

今、上本多町川御亭と称し、町名とす。此の地は倉月用水川たる思案橋の西方を呼べり。右用水川に当たりゆゑに川御亭といふと。但し川御亭とて此の地に藩候の離亭ありたる事、詳らかならず。一説に、昔本多氏下邸岩問屋の圏内に亭ありて、近き頃まで亭の跡とて礎石が残れり。此の亭ありし地は思案橋の近辺なれば、此の事をばそのかみ川御亭と呼びたりし故に、此の地辺に川御亭の遺名あるにやといへり。「金澤古蹟志 第5編 12P40より」

 

岩間屋:藩政期、本多家下屋敷のことを世の人々は“岩間屋”と呼んでいました。藩政初期には、今の牛右衛門橋(現金澤町家情報館前の橋)辺りに藩士岩谷牛右衛門の屋敷があり、後に故あって禄を辞し、藩から退去し、その跡が本多家下屋敷になり、その辺を岩間屋(岩谷が訛ったものか?)と呼んだそうです。万治2年(16593代利常公が逝去され、小松附諸士が金沢に戻り、この地が藩の用地になり、本多家下屋敷は手木町口に移りますが、人々はその辺り本多家下屋敷を旧地名の岩間屋と呼んだという。)

 

 

(思案橋)

 

[思案橋]

現在、思案橋の名前の由来として流布されているのは、この付近に加賀の筆頭家老、本多家の別邸があり、そこに通う本多の殿様が、”今夜は酒にしようかそれともお茶にしておこうか”と思案したことからこの名がついたと、誠しやかにいわれています。

 

しかし「金澤古蹟志」にある「金沢橋梁記」の引用を要約すると「思案橋」は本多家中(かっちゅう・家臣が住む下屋敷)にあり、この橋は倉月用水川(今の勘太郎川)”に架けられていた。三州名跡誌には、本多氏の元祖安房守政重、加賀藩士と成り金沢へ来た頃、男達の気負い者が多く召仕えていて、この者ども毎日この橋へ出で今日は“西へいこうか東へ往んと「思案」していたので橋名に呼ばれる事とになったと。

 

また、柴野美啓の「亀尾記」を要約すると、この辺りは、石浦野という荒地で、賊魁安藤四郎・藤塚小太郎・同伊豆という者が、この辺り潜伏し居いたが、天正八年柴田勝家により討亡されたという。その頃「しあん某」といふ者がこの地に居住していて、それ故に「思案橋」の橋名に遺されたそうです。一説には、本多氏元祖安房守政重が加賀藩へ勤仕した時、諸国から集まった武士も就いて来たそうで、その中に侠客を名乗る若者達が、いつもこの橋の上に集り、東へ行こうか西へ遊びにいっくか思案していたということから「思案橋」の名が起ったという言い伝があるとか、今按ずるの、両伝説はいずれが正説なのかと結んでいます。「金澤古蹟志 第5編 12巻 P41など」

 

 

 (今の鱗町)

 

[鱗町]

元禄9年(1696)の地子肝煎裁許附に、犀川荒町、いろこ町とあり、此の時代にいろこ町も呼んだりけん。此の町名の起源は詳かならず。此の町は犀川荒町の上にて、倉月用水の川縁より、百姓町への往来なる片原町の町家を呼びたるかど、明治4年(18714月町名改革の時より、荒町と合併して鱗町と称せり。「金澤古蹟志 第5編 13巻 P48より」

 

 

(今の鱗橋辺り・コンクリートの下に勘太郎川)

 

[鱗橋]

金澤古蹟志によると「金澤橋梁記」に、うろこ橋うろこ町とあり、此の橋は玄蕃川と倉月用水との落合に架けたる往来橋也、右両水皆犀川の分水なりしかど玄蕃川は近き所なるゆゑ、毎も清潔にて水澄みたり。然るに此の橋下にて、清濁の二水落合ひけるに、清濁常に振分れ見るが故に、俗に澄濁橋と雅名す。「金澤古蹟志 第5編 13巻 P49より」

 

参考ブログ

油瀬木から子守川股地蔵尊まで《鞍月用水①》

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11812568033.html

 

牛右衛門橋からあかね屋橋まで《鞍月用水②》

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11814781550.html

 

(延宝の金沢図より・勘太郎川と玄蕃川周辺)

 

これらを読むと、今の「勘太郎川」は藩政期に倉月用水と言われていたことが分ります。しかし、書かれたものでは「思案橋」まで、延宝金沢図では、その先に二筋の川に繋がっています。一筋は今の勘太郎川、もう一筋は、今の猿丸排水路と菊川雨水幹線が合流したもので、どちらの川筋が昔の倉月用水か断定しかねます。

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻12・巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行


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