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勘太郎川③倉月用水??

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【石引2丁目→鱗町】

現在の勘太郎川の名称は、何時からそのように呼ばれていたのか?現地へ歩き、図書館や役所へ行き調べていますが、なかなか正解に至りません。そんな時、果たしてこんな事を調べて何の役に立つのだろうか?学者や役所の揚げ足を取るだけではないだろうか?と少し悩ましくなってきます。

 

 

 (思案橋)

 

しかし、一日寝るとそんな事もコロッと忘れ、性懲りもなく、天気が良いと現場で、疲れると本を漁ったりしていると、何となく日々充実したような気になります。はい、目標をデッチ揚げて走るのが私にとって若さを保つ秘訣のようです。お陰で、毒にも薬にも知恵にもならないいい加減な知識を得て自己満足しています。

 

 

(昭和6年の勘太郎川周辺の地図)

 

(旧欠原町下の勘太郎川と名前も知らない橋・右に上がると旧新坂町)

(旧欠原町の崖下、勘太郎川は茂み間を抜けています)

 

 

愚痴はこのへんにして、本題にはいります。勘太郎川は、大正から昭和の始めまでは「稿本金澤市史」によると「笠舞用水」と呼ばれていたらしいが、現在、戦前から残っている思案橋(大正152月架)や勘太郎橋(昭和49月架)も橋標には橋名板や橋歴板が刻まれていますが、川の名前の表示が何処にもありません。しかも、森田柿園の「金澤古蹟誌」を調べていて気付がありました。何とそれは、明治の初期までは「倉月用水」と呼ばれていたらしい・・・?

(詳しくは次回までに、まとめておきます。)

 

 

(新坂二の坂から小立野台緑地に上る坂)

(新坂二の橋)

(上は小立野台緑地)

 

川は崖下の谷の風情は昔のまま、かって旧上欠原町の住民が洗濯をした処には、現在、鉄板の手作りの橋と名も知らないコンクリート橋が架かり、この辺りから川の真ん中に排水溝が見え始め、本多町一の橋まで続きます。今の小立野台緑地の崖下から昔を感じさせる雰囲気とコウド(洗濯用の階段)が残る嫁坂下の「新坂一の橋」に至ります。

 

(新坂一の橋の上にあるコウド)

 (新坂一の橋)

 

「新坂一の橋」から「手木橋」「本多町四の橋」「本多町一の橋」まで、この辺りになるとさらに水量は少なくなり、平素は川の真ん中に造られた狭い排水溝にわずかの水が流れています。勘太郎川は、旧本多家の下屋敷と「手木町」の間を犀川の方角に一直線に約400m流れて右に曲がると「百地橋(時雨平橋)」が見えてきます。

 

 

 (手木橋)

(現手木町)

 

[手木町]

金澤古蹟誌によると「此の地は、旧藩中は手木足軽の組地なり。此の人々をば世人御手コと呼べり。故に町名をも御手木ノ町と称す。元禄6年(1693)の士帳にも、本多図書邸地安房守下屋敷御手木ノ町方とあり。按ずるに、延宝の金沢図をみるに、此の地辺り悉く皆三十人組及び小頭の組地なるよし記載す。されば延宝の後三十人の組地に移転し、その跡地をば手木足軽の組地と成したるものと聞ゆ。三十人組は、藩候の御手廻りと称する小者にて、手木足軽とは異也」とあります。

 

(延宝の地図には三十人組の組地は記載がない、見間違えか?)

 

 

 (延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)

 

 

[手木足軽]

藩政期、露地奉行の支配で、城内等のお庭の諸事に従事し、お殿様が江戸参勤のときは、荷物の宰領を勤めています。元々手木足軽は、戦場で太刀を持って戦うために召抱えられたもので、力量の検査があり、殊に大男が選ばれたといいます。

 

(現玉泉院丸)

 

 

また、寛永11年(16342代利常公が、京より剱左衛門を呼び寄せ、玉泉院丸に築山泉水を造るにあたり、御相撲の者50と御鉄砲の者100人が庭造りをしたという。どうも、この御相撲の者が、御手木足軽の始めではと、森田柿園は「金澤古蹟誌」に書かれています。

 

(手木とは、木やりの人が、手木(十手のようなもの)で、指図をするためのものだそうです。)

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

 


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