【出羽町・本多町界隈】
大昔、松田家は京で北面武士だったと伝えられています。代々、聖徳太子(厩戸皇子)直作の木像が守り本尊だったといいます。松田家は、観應の頃(1350~1352)、加賀国に来て田井村に住み郷士になります。その聖徳太子直作の木像は、後に田井村の道場に移され、今も、たま~に新聞ネタになることもあります。
(北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士で、11世紀末に白河法皇が創設。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員されたそうです。)
(田井の道場・善行寺)
15世紀中頃の松田家は、加賀国石川郡の田井城を居城とする一向一揆の“タイシ”の棟梁松田次郎左衛門で、田井城については「加邦録」によると、奥村河内守の屋敷(現国立医療センター)から出羽町(石引4丁目)にかけての土地を居城とし、松山寺(八坂五山)あたりは二の丸、成瀬内蔵助宅あたりは三の丸(旧成瀬町)で、今の八坂の道はその頃は馬場で、そばの堀は馬を洗うために作ったと書かれているそうです。
(松山寺・田井城の二の丸)
(旧成瀬町(成瀬内蔵助屋敷跡)・三の丸)
(当時、田井村は金浦郷に属していました。金浦郷は石川郡と加賀郡(河北郡)にまたがる23ヶ村からなり、かっては河北郡(室町時代頃から使われていたようで、正式名称には元禄13年)が加賀郡といわれていた。田井、牛坂、牛首、土清水、館の5村は加賀郡(河北郡)で、その中でも田井は一番大きい村だったという。)
(旧成瀬町)
《タイシ》
タイシとは「太子信仰」を指します。聖徳太子を日本における「仏教の祖」として讃え崇めるという思想で、歴史は古く一説によると8世紀「日本書紀」の編纂の頃には存在していたとされ、聖徳太子を“日本の釈迦”として尊崇する貴族の仏教信仰であったと云われています。以降、日本に仏教が定着するようになって聖徳太子は日本の仏教の祖であるとして「太子信仰」が民間大衆にも定着するようになっていったとされています。平安時代に空海によって神仏習合(神と仏を一体とする思想)が広められた後に民衆に定着したとされ、その際に「聖徳太子伝暦」という聖徳太子伝説の集大成ともいえる書物が、太子信仰のバイブルとなっていたようです。
(田井の道場・善行寺)
州崎慶覚坊の項で触れましたが、“長享の乱”の前、洲崎と松田はライバル関係にあり“ワタリ”の慶覚坊が次郎左衛門を謀殺する事件が起こります。その事件は、慶覚坊が密計を廻らし和睦を持ち掛け、日頃仲の悪い松田と甥の石浦主水を米泉の館に招いて酒宴を設け、宴たけなわとなる頃、突然、沈酔した松田を殺害します。
参考ブログ
俗諺"聖徳太子直作の木像
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10909421544.html
事件では、松田の馬丁三右衛門が、敵一人を討ち取り、浅手を負いながら逃れ出て、主人の馬で田井城に帰ります。洲崎は松田を討ち取ったことに乗じて田井城に襲い懸ります。三右衛門は主人の討死を皆に告げ、防戦に励みますが勇激な者はみな米泉で討ち取られ、士卒は大将の討死に気落ちし色を失い、多くの士卒は城を捨て逃げ出したと言います。
(田井城本丸跡)
田井城に残った士卒は10名とも20名とも言われています。その上、松田の甥石浦主水の石浦の砦も陥落し、松田の妻は茫然として途方に暮れ自害をして夫の死出に伴うと言いますが、三右衛門は、それを諫め、主人の妻子を越中砺波の荒木(現南砺市)へ落とします。後にその子は城端城の城主になり荒木六兵衛(他資料には六右兵衛?)という。前田利家公が越中に出向いた時、松田次郎左衛門の由緒を聞き「甲斐々々しき者の子と感じ」子孫を召し抱え、家禄千石を賜り加賀藩に仕えました。子孫の荒木善太夫は代々東末寺(現東別院)と西末寺(現西別院)の間、極楽橋見付角に屋敷を拝領し、その子孫は廃藩まで居住したといいます。
(極楽橋跡)
(荒木善太夫の屋敷跡)
ところで荒木六兵衛は、馬丁三右衛門の子ではと言う説があります?実は、松田の妻子より聖徳太子(厩戸皇子)直作の木像を形見として三右衛門に与えられていたものを、利家公に召し出された時、この像を俗家に置くのを恐れ、子孫が田井村の道場に納めたという、この伝説が真実であれば?荒木善太夫は、馬丁三右衛門の子孫と言えるかも・・・・。
(つづく)
参考文献 :「金沢古蹟志巻30」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 ほか