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本多町界隈の一向一揆伝説③河合宣久

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【出羽町→本多町界隈】

昔から竪町の油屋多田家のご先祖は一向一揆の大将で、前にも書きましたが、その子孫油屋源兵衛が藩政初期、牛右衛門橋辺りで、油を絞るために水車を廻し、水勢が弱いので、今、鞍月用水といわれている犀川の油瀬木から鱗町までの玄蕃川(源兵衛川)を開削したといわれています。

 

 

(多田家五百年の歴史)

 (油車)

 

以後、藩政期、明治、大正、昭和と多田家の油屋は竪町にありました。昭和46年(1971)に事務所や住宅を竪町に残し、工場や倉庫を市内の別のところに移します。今、竪町の敷地には、平成2年(1990)完成した3階建てのHOUSE1991というテナントビルと駐車場、コミュニティハウスがあり、さらに多田家の会社事務所と住宅になっているそうです。

 

 

(五葉松と多田家の駐車場)

 

今、昔の多田家を偲ぶものに、駐車場の隅に樹齢約500といわれている“しめ縄”が巻かれた「五葉松」が現存しています。もとは多田家が代々手入れされてきた“盆栽”だったといわれ、この庭に移植されたのは、今から約200年前の文政の頃と聞いています。

 

 

 (しめ縄の五葉松)

(HOUSE1991から駐車場)

 

[河合藤左衛門 宣久(多田五郎政晴)]

生年不詳~享禄4年(1531)は、戦国時代前期の加賀一向一揆の大将。通称は藤左衛門で、子は右京亮虎春。摂津の清和天皇源氏の流れを汲む多田氏の出身で、由緒書には「姓は源氏、摂津国多田家の氏族は居住したが、103代後土御門院天皇の御代文明中越前に下り、朝倉家に仕え、その後禄を辞して加賀国能美郡河合村(現白山市河合町・旧鳥越村の手取川本流筋の村)に来住して河合藤左衛門宣久と改名、遂に父子郷士となる。本願寺の麾下の宿老の一人」と書かれているそうです。

 

 

 (現在の五葉松)

 

長享2年(1488)本願寺門徒らが加賀国守護富樫政親を高尾城に攻め滅ぼした「長享の一揆」では、石川郡富樫庄久安村に城を構え、洲崎慶覚坊や石黒孫右衛門らとともに一揆方の大将を務め、加賀国守護富樫政親を高尾城に攻め滅ぼしたという。河合宣久の麾下の部隊は富樫勢の大将本郷春親とその子松千代丸を討ち取り、富樫政親を自刃に追い詰め、加賀を百年近く仏法領国とし「百姓の持ちたる国」といわれ、一向宗は能登・越中と拡大させます。

 

 

(現在の高尾城・タコ城)

 

 (多田家五百年の歴史より)

 

永正3年(1506河合宣久は、加賀、能登、越中の門徒に甲斐氏の牢人らが加わり越前に侵攻した九頭竜川の戦いで、朝倉宗滴の軍勢に敗れます。その後大一揆といわれた本願寺で実権を握る蓮淳が派遣した下間頼秀・頼盛兄弟と加賀や越前から逃れて加賀に入っていた超勝寺(蓮淳の婿)や本覚寺と組み、小一揆といわれた賀州三ヶ寺(松岡寺・光教寺・本泉寺)の所領を横領し、加賀の門徒衆と軋轢を起こして内紛状態になり、河合宣久小一揆は蓮悟らと能登の畠山氏を頼ります。

 

 (多田家五百年の歴史より)

 

享禄4年(1531)越前から大一揆朝倉宗滴の軍勢が援軍(超勝寺や本覚寺が越前の戻るのを阻止するためか?)として加わり合戦となると、これに呼応して畠山家俊の軍勢と河合宣久は加賀国に侵攻しますが、下間頼秀らの大一揆の軍勢に敗れ、河合宣久は、享禄4年(153141028日(旧暦126日))に討ち死しといわれています。

 

 

 (多田家五百年の歴史より)

 

河合宣久の子河合右京亮虎春はその戦で生き残り、後に河合藤左衛門と改称し、倉ヶ嶽麓の石川郡坪野村(現金沢市坪野町)へ退隠し、法躰して才覚と号します。その子源兵衛が松任へ出で町人と成り、坪野屋源兵衛と名乗り、始めて種油を製造します。その子は藤左衛門と云い、藤左衛門の子は多田油店の祖與助です。寛永(16241645)の頃に金沢へ出て木倉町に居住し、種油を商売しますが、正保年中岩谷牛右衛門(今の油車)の揚地を賜り、倉月用水を取入れ、初めて水車を建て、種油を製造したのが、後の多田油店です。

 

 

 

PS: 河合宣久と油屋源兵衛を調べながら、亡き友のことが脳裏をよぎります。40数年前、彼は多田家の遠縁だと言っていたことが蘇ってきました。当時は河合宣久も多田家も知る由もなく、すっかり忘れていましたが、多田家の家譜に、彼と同じ苗字を見つけ思い出しました。彼は子供の頃、お爺さんの影響で剣道を始め、近所の子供達が遊ぶのを横目で見ながら、仲間に入ることなく、弟とひたすら剣道に励みます。お爺さんは相当のスパルタ教育だったらしく、庭の木に縛り上げられたこともしばしばで、かなり厳しい少年時代を過ごしたようでした。

 

 

働くようになってからは、その経験から学び、身について居たのか、洞察力、指導力、説得力、そして愛情も感じられリーダーとしての素質を充分に備えていて、指導者研修でも指導の先生からセンスがあると、お墨付きを戴いていました。当時100人もの部下を上手くまとめていたのが思い出されます。私も長い間、今の今まで、お爺さんのスパルタ教育の成せる技だと思い込んでいましたが、河合宣久や多田家の人々を知り、人の“器”というのは、努力や勉強など後天的なものだけではなく“血筋”もあるということを再確認しました。多分、血筋などは関係ないと思い込んでいたのは、私のように「何処の馬の骨かも分らない者」のコンプレックスだったのでしょうネ!!

 

(つづく)

 

参考文献:「五葉松は語る多田家五百年の歴史」野村昭子著 発行16代多田家当主多田與一郎 2000913日発行 「金沢古蹟志巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行


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