【出羽町→本多町界隈】
洲崎慶覚坊について、前回、勝手に本人が「泉入道」と名乗ったと書きましたが、それを後世の人がご丁寧に?「和泉守」と四等官(官員)のように“守”が付いている文書もあります。それらはみんな誤であると森田平次(柿園)が「金澤古蹟志」に書いています。また、諸旧記には洲崎兵庫はみな同人のように載っていますが、その事実は判然としません。当然、利家公から扶持を給わったという洲崎兵庫も、慶覚坊より遥か後の子孫のようです。
(慶覚寺境内)
(慶覚寺境内)
今、天神町の椿原天満宮の石段脇の狼煙の松の説明板に書かれている椿原砦を築き屯所にしたという洲崎兵庫も大小一揆(享禄の錯乱1531)時代の人で、洲崎慶覚坊(永享5年(1433)~永正6年(1509))の後の子孫で別人であると言えます。
(椿原天満宮の狼煙の松の説明板)
[洲崎慶覚坊、松田次郎左衛門謀殺事件!!]
洲崎泉入道慶覚坊伝によると、「タイシ」の河北郡の棟梁、松田次郎左衛門で田井城(今の国立医療センター)の城主とは、洲崎慶覚坊はライバル関係にあり、慶覚坊は虎視眈々と河北郡を獲ろうと狙っていました。ある時、和睦を持ちかけ、米泉の館の招待し、酒宴中に謀殺します。詳しくはこのシリーズの松田次郎左衛門に書きますが、今回は「金沢古蹟志」の洲崎慶覚坊傳の一部分を引用します。
(松田次郎左衛門、慶覚に滅ぼされる!!)
[州崎慶覚坊傳]
加賀古跡考に云う。昔、長享年間洲崎泉入道といふ一揆大将、並に一族兵郎十郎左衛門・孫四郎等.石川郡泉村の辺りなる村に居住す。其の館跡は何れの地とも知れざれども.今米泉村に兵庫の塚といふあり。此の辺地泉米泉など、何れも皆一族の居住所なるべしといへり。亀尾記に.米泉村に洲崎泉入道慶覚坊の古墳あり。
村中字駒坂といふ所にあり。古松ありしかども近年立枯れと成る。といへり。按ずるに.泉入道が居館は米泉村にあり。飛耳集録に、昔、当国尾山の城本源寺の家老松田次郎左衛門は、河北郡の棟梁として小立野宝憧寺坂を城郭となし、尾山城の押さえに蟠居す。其頃、河南米泉郷に洲崎兵庫と云ふ者あり。石川郡の押領使として、.数年本源寺と威を争ひ、.折を伺ひ河北を取らんと人を巧み謀る事歳久し。然るに松田と和睦し、次郎左衛門を米泉の館へ招き、酒宴中に次郎左衛門を討取り、夫より彼居城等へ又軍を向け、松田が甥石浦主水の居城石浦砦等を不日に攻略す云々。といへり。・・・・・・・・。(この後に書かれているのは、同名子孫の記事なので省きます。)
○出典は金澤古蹟志第5編13巻p53
(慶覚寺本堂の甍)
参考ブログ
俗諺(ぞんげん)聖徳太子直作の木像
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10909421544.html
PS:[慶覚寺のご本尊伝説]
金沢近郊(今は金沢市)に三小牛山(みつこうじやま)という小高い山があります。芋掘藤吾郎伝説にでてくる山で、地名の由来は、昔、金・銀・鉄の精が三匹の子牛となって出たという「亀尾記」などによると、大晦日の夜に藤吾郎のところに黄・白・黒の三頭の子牛が門に入り、翌朝よく調べると、金銀鉄の三つの塊(兜)だったといいます。
(今の三小牛山より金沢を見下ろす)
藤吾郎はこれを阿弥陀、薬師の仏像に鋳しめ安置し、残余の金銀は全部人に施したと云う。その阿弥陀像は、後世洲崎慶覚の安置仏に、今は末裔慶覚寺のご本尊で、薬師像は寺町の伏見寺のご本尊だと伝えられています。また、藤吾郎の妻和五の守り本尊の観音像は卯辰山の観音院のご本尊だと云う・・・
(つづく)
参考文献 :「金沢古蹟志巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行
慶覚寺(金沢市)Wikipediaにご本尊に写真が載っています。