【出羽町→本多町界隈】
百姓町の慶覚寺は、新竪町の床屋に中学の同級生が働いていて、学校帰りに慶覚寺経由で散髪に行った時に知ったのが初めでした。それから、半世紀が過ぎ、ボランティアガイドを目指し、座学を補うためバイクでの街巡りで、慶覚寺が一向一揆の洲崎慶覚のお寺だということを知ることになります。また、幕末に江戸・京都・大阪で活躍した金沢の俳人桜井梅室のお墓があると聞き見に行ったこともありましたが、それだけに終わっていました。
(慶覚寺)
その頃、遠縁の法事で慶覚寺のご住職にお会いする機会があり、その場で、住職が自ら先祖は“海賊(湖賊)”でして、と言っていたのが頭に残っていたのですが、そう、調べるチャンスは幾らでも有ったのに、あれから10年以上が過ぎていました。
[慶覚寺(きょうかくじ)]
慶覚寺は、金沢市の百姓町(現幸町)にある真宗大谷派の寺院で、山号を洲崎山と称します。ご本尊は蓮如から直に下賜された高さ4寸8分の阿弥陀如来像で行基作と伝えられています。開山開基慶覚為信は、永享5年(1433)6月25日、もと近江国浅井郷の郷士洲崎次郎右衛門の次男(3男とも)として生まれ、長禄元年(1457)京都東山の大谷本願寺で8世蓮如の弟子となり、慶覚の号を拝命。文明8年(1476)に米泉村(金沢市米泉町)に住み着いて道場を開きます。寛文元年(1661)3代慶順の代になって金沢市百姓町(現幸町)に移り慶覚寺の寺号を受け現在に至ります。
(比叡山と堅田と琵琶湖の図)
[洲崎慶覚為信の半生]
洲崎慶覚為信の生没は永享5年(1433)~永正6年(1509)。室町後期の近江の土豪の出で 洲崎兵庫とも称しました。永享11年(1439)7歳の時、近江天吉寺山頂の天台宗霊場大吉寺で僧となり、山伏より薙刀を習い、文安4年(1447)伊吹山で山伏となり火乱坊明覚を名乗り、宝徳3年(1451)近江甲賀の飯道山に行き「飯道山の四天王」と呼ばれていたといいます。享徳4年(1455)関東を経て奥州まで旅し、翌年近江に帰り堅田で一向宗門徒の娘と所帯を持ち“湖賊”になったといいます。長禄元年(1457)金森(現守山市)の道西・堅田の法住らと共に京都東山の大谷本願寺で8世蓮如の弟子となり、法名慶覚を授かります。
(比叡山と堅田と琵琶湖)
寛正6年(1465)、延暦寺の衆徒に大谷本願寺を破却されたとき蓮如をかくまい、翌年山門衆徒と高田専修寺門徒の襲撃から救出し、応仁2年(1468)年3月24日、将軍義政及び延暦寺による堅田湖賊討伐(堅田の大責め)に、堅田衆と共に興の島に避難します。慶聞坊(道西の甥)、下間頼善(蓮如に仕えた坊官)と蓮如の供をして、北国東国へ巡錫し、文明2年(1470)山門との和平成立し堅田に戻ります。
(比叡山に追われる)
(逃れて越前吉崎へ)
文明3年(1471)蓮如とともに越前吉崎に行き、蓮如の4男蓮誓を後見し、加賀守護富樫政親と交渉に向かい、加賀に居住します。文明5年(1473)蓮如は守護の保護を受けるため、富樫政親の要請を受けて富樫家内紛に介入し、翌年富樫幸千代を倒しますが、富樫政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じ、文明7年(1475)門徒弾圧を開始し、加賀門徒とともに越中に逃れ、文明10年(1478)加賀松根道場を任され、河北郡松根に館を構え、浅野川以北の北国街道沿いの森下・柳橋・小坂・大樋までの荘園を押領します。
(押領(おうりょう):平安時代中期以後の荘園制下において武力などの実力をもって他人の所領や年貢などの知行を侵奪する行為。本来は不法行為に相当するが、室町時代末には、北陸の有力土豪が、都の公家の荘園の年貢の押領し勢力を増し、正当な権利者によるものも含めて実力行使を行ないます。)
(松根城)
これに対して被害を受けた者(公家等)は知行回復の訴訟を行い 越中砺波郡の石黒光義が政親と結んだ門徒弾圧に対抗し、文明13年(1481)越中一向一揆を起こし光義を討ち取り、富樫政親は加賀支配の承認を得るため将軍義尚の六角高頼遠征に従軍しますが、戦費の拡大に反発した国人層と結んで決起します。
洲崎慶覚ら一向一揆軍は、長享2年(1488)富樫泰高(傀儡)を守護に擁立し、富樫政親を高尾城に滅ぼしました。慶覚は、後に道場を米泉に構え、蓮如から授かった行基作の阿弥陀如来像を安置し、米泉、西泉、泉野の3泉(現金沢市犀川以南、伏見川流域周辺)を領地とし、かってに「泉入道」と称号を唱え、米泉に道場を構えます。
《ワタリ》
近江国琵琶湖湖畔の本願寺門徒は土地から土地を自由闊達に渡り歩いた自由人であったといいます。彼らは蓮如上人の越前吉崎入りに力を貸し、一向一揆には「外人部隊」として登場します。近江門徒の頭の名前は法住(ほうじゅう)といい堅田の人でした。彼は坊主でありながら染物業を営んでおり、配下の者の生業も油屋、麹屋、研屋、桶屋等が多かったそうです。
法住らは寛正6年(1465)本願寺の勢力拡大を恐れた比叡山の手で京都を追われ、蓮如を6年間かくまい、琵琶湖経由で越前吉崎へ送り届けます。危険をあえておかした行動は蓮如に対する厚き信頼のみならず、法住一門が当時貨幣経済の発展で資力を蓄えたことが自信に繋がりました。
「自分は門徒にもたれて生きる」と言いきったという蓮如は、こうした新しい処世観をもった近江門徒との出会いで固まったといわれています。法住の自坊である堅田本福寺には「本福寺門徒記」や「本福寺跡書」の古文書が残り、貴重な歴史資料になっています。法住たちは精力的に活動し吉崎のみならず、「加賀、能登、越中、信濃、出羽、奥州、因幡、伯耆、出雲ヘ越シ商ヲセン」とあり、教線の拡大が商圏の伸張にも繋がったといわれています。
(つづく)
参考: PCより「慶覚坊の略歴-酔雲庵」
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=10&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwi_kavPwMbVAhXHw7wKHSCSCZwQFghOMAk&url=http%3A%2F%2Fwww.suwiun.net%2Fnewpage276.html&usg=AFQjCNGIy1ia4bFxrEznrKKkPzdmHOQs2Q
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