【出羽町・本多町界隈】
最近、リハビリを兼ねて散歩をします。コースは、石引の家を出ると、幾つかある道を気まぐれで一つ選び本多町界隈を目指します。その辺りは崖の上と下で、地形も複雑で道も狭く昔から公共交通機関もなく、車が普及してからも駐車が不便で、私も歩いて行くのは”大乗寺坂“や石川県立美術館裏の“美術の小径”から本多町の図書館へ行くくらいでしたが、ここ3ヶ月、いろんな道があるのを思い出し散歩やサイクリングをしています。
(美術の小径)
前回までは、辰巳用水の分流”勘太郎川“沿いを下ったり上ったりして一人遊びをしていていましたが、最近は少し飽きて”よそ見“をするようになりました。昔、何気に素通していた道筋も余り変らず、古い家々が残っていて、歴史が感じられ、断片的に憶えていた”一向一揆伝説“が繋がりだしました。
(美術の小径の隣りに今年復元された歴史の小径)
この辺りには一向一揆で、「釈賊」「賊衆」といわれた有力土豪の所縁のところが幾つもあるのに気付きました。それは、一向一揆初期の旧百性町慶覚寺の“洲崎慶覚”であり、油屋源兵衛の先祖の“河合宣久”石浦砦の“石浦主水”石浦主水の叔父で今国立医療センターの“松田次郎左衛門”それに後期の“山本若狭守家藝”の屋敷跡や所縁のところが歩いて廻れる範囲にあり、今度はそれらを詳しく知りたくなりました。
(慶覚寺)
藩政期には、一向一揆についてはタブーで、今、残されている資料は伝説・伝承や後の推論と思われるものの引用が多く、史実かどうかはよく分っていませんが、伝説・伝承として興味深い口伝が今も数多く残っています。それらは「火の無いところに煙は立たない」の喩えを借りれば、伝説は煙であり、煙の向こうに「何かが見えたらどんなに楽しいだろう」という思いから、また、金沢に住むものとして約500年以上前、どのような体制で何が起こりどのような変貌を遂げたのか、そして、どのように生きたかを知る統べになればと思います。
(河合宣久の子孫油屋源兵衛が水車を使い菜種油を採る)
[一向一揆とは]
応仁・文明の乱では、国の秩序も乱れ、それに乗じて北陸でも「ワタリ」や「タイシ」と言われた土豪が蓮如の教えを精神的な支えに、荘園の押領行為を繰り返し旧勢力に対抗していました。文明6年(1474)の「文明の一揆」は富樫家の内紛に関与したものでしたが、文明13年(1481)「越中の一揆」においては旧勢力VS一向宗(蓮如の連枝井波の瑞泉寺)と土豪軍の図式で戦い、一向宗側が勝利し、さらに長享2年(1488)の「長享の一揆」に至り、一向宗と土豪の連合軍が守護富樫政親軍を滅ぼし、加賀は「百姓の持ちたる国」と言われるようになりました。その後、享禄4年(1531)には一揆の内戦による「享禄の錯乱(大一揆VS小一揆)」で小一揆の地元蓮如連枝の寺(若松の本泉寺・波佐谷の松岡寺・山田の光教寺)と土豪軍が潰え、加賀は天正8年(1580)の織田軍進攻まで本願寺が治める国だったと言われていています。
(石浦主水・山本若狭守の館跡)
≪参考≫
“応仁・文明の乱” 応仁元年(1467)5月、将軍義政の弟義視と実子義尚の相続争いが、斯波、畠山両家の内紛におよび、ついに全国ほとんどの地域を戦場にしてしまいます。これを期に世間の騒動は、まるで荒野に戦車を突き進ませるようなすさまじさで展開します。終焉は文明9年(1477)でした。
(本多町周辺・安政期の地図)
“加賀の文明の一揆(文明6年(1474))”
東軍(細川勝元)赤松・朝倉(西軍を裏切り東軍へ)など 富樫政親・・・・本願寺・白山衆徒 (勝利)
西軍(山名宗全)畠山・斯波など・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 富樫幸千代・・・高田専修寺派 (敗北)
“越中の一揆” 文明7年(1475)蓮如が吉崎を退去したころ一揆勢は弱体化します。体制の挽回を図りますが、富樫政親の弾圧がはじまり、坊主・門徒は越中に逃げます。文明13年(1481)越中の福光城主石黒光義が富樫政親に呼応して医王山の天台宗惣海寺衆徒と語らい井波瑞泉寺を襲う、一揆軍が防戦に当たるが、湯涌次郎右衛門が率いる湯涌谷勢らの加勢もあり一揆軍が勝利しました。
越中の3分の1の砺波郡が「一向一揆の持ちたるような国」になります。この戦いで自信を得た一揆軍が、後に富樫政親に挑み「長享の一揆」に勝利する切っ掛けになったといいます。
(現国立医療センター・松田次郎左衛門の城跡)
“百姓の持ちたる国” 学校では、加賀は中世の一時期、一向一揆によって約100年間、農民による自治が行われたと学び、石川県を紹介するいろいろなものにもその様に書かれています。これは蓮如の10男実悟の「実悟記拾遺」に述べられた「・……近年は百姓の持ちたる国のようになり行き候ことにて候。」から誤解して伝わったもので、当時は、今われわれがイメージする百姓とは違い、農民=百姓とは全く異なるもので、百姓を被支配階級と理解すべきです。したがって長享の一揆では支配者が守護大名から土豪と連枝の寺に代わり、享禄の錯乱では支配者が本願寺に代わったと理解すべきです。(当時、守護は傀儡で存在していました。)
(つづく)
参考:ウイキペディアフリー百科事典ほか