【石引2丁目→鱗町】
勘太郎川は、文化8年(1811)の金沢町絵図では、辰巳用水の中石引の35番目水門から波着寺の塀沿いを通り、ぢごく橋から谷を下り一本松までの流れを「御水戸捨水」と書かれています。その御水戸捨水は旧笠舞用水(藩政期の名称は不明)と合流し、勘太郎橋へと流れています。
「金澤古蹟志」には「此の橋は、波着寺前に有り。一説に、此の橋の本名は樹木橋と呼べりともいへり、辰巳用水の落し水に架けたる小橋なれど、昔より橋名を呼び来たり。但し地獄橋の名義は、如何なる由縁より起れるに詳かならず。「じゅもく」を「ぢごく」と呼び誤りたるべし。」とあります。
(川上新町・笠舞組等図より・金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)
[笠舞一本松]
文書での初見は、元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、笠舞がけ原・同一本松で、卯辰山の一本松と混同するため、小立野一本松と呼んでいたそうです。続漸得雑記に、「昔は小立野の方片側のみ家並びあるが故、一方町といひたりしを、後人の唱えし。故に此の地に一本松と呼べる松なく、いにしへさる大木の古松ありしの傳説もなし。唯町名を一本松と呼べるのみなりといへり。」と「金澤古蹟誌」第5編城南本多町笠舞筋に書かれています。
(一本松橋に上から見る合流地点)
(一本松の陸橋)
合流した勘太郎川の流れはトンネルを潜ります。「欠原②古今あれこれ」にも書きましたが、昭和14年(1939)軍事用に二十人町1番丁から下菊橋を渡り寺町台へ繋るため二十人坂を造るため、二十人町の崖に二つの陸橋(一本松陸橋・揚地町陸橋)を架け坂にしたことにより、崖下を流れていた川を通すため一本松陸橋側にトンネルが造られました。勘太郎川は、そのトンネルを潜り流れは勘太郎橋へと繋がります。
(勘太郎川のトンネル)
勘太郎橋は、上欠原町や笠舞の交差点とも云うべき要路で、4方の道が集まり、急坂を上がり真行寺の坂から石引へ、陸橋を潜り一本松から小立野新町へ、揚地町陸橋から笠舞へ、また川沿いから新坂や嫁坂、手木町から本多町に繋がっています。
(勘太郎橋の入口)
[勘太郎橋]
「金澤古蹟誌」第5編城南本多町笠舞筋によると、「此の橋は一本松の往来に架かり。いにしへ勘太郎と云う人架け初めたり。故に勘太郎橋と呼べるにやいふ説あり、實談なるか。一説には、此の橋邊に勘太郎といふもの居住す。故に橋名に呼べり」とあります。
(勘太郎橋の出口から揚地町の陸橋)
[稿本金澤市史・笠舞用水]
①現手木橋 ②現本多町四の橋 ③現本多町一の橋 時雨平橋(現百地橋)⑤新坂一の橋 法念寺橋は(法然寺橋とも百姓橋とも)
余談:橋にも川や道路と同じように起点終点があるそうです。橋の起点は橋の入口で橋の終点は橋の出口だそうです。しかし、どっちが橋の入口で?出口か?よく分りません。よく見ると橋柱に橋名が“漢字”で書た方は起点の入口で、反対側の“ひらがな”で書かれた方は終点の出口だそうです。
それと、橋の名前が勘太郎橋のように「ばし」と濁る場合、反対側の“ひらがな”で書かれている方は「かんたろうはし」というふうに濁らずに記されることが多いそうです。このように濁音をとって記されるのはその橋がかかっている川の水が濁らないようにという思いを込めてそのようにしているらしい・・・。
(つづく)
参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行