曹洞宗真行寺の山号は、初めは安禅山で後に法隆山。開基尼僧洲岩は、大阪の陣で功績のあった木村重成の縁故の者といわれています。重成の菩提を弔うため庵を結んで真行寺と名づけ、托鉢で維持していたと伝えたれています。寛永8年(1631)3代藩主前田利常公から百姓町に屋敷を拝領されますが万治2年(1659)小立野に移りました。加賀藩の重臣本多安房守の家老篠井雅楽助は、洲岩の篤信道念に感じ入り、浄財を投じ一宇を建立し、当時、大乗寺15世謙室呑益大和尚を請じて開山第1世とします。
(真行寺門前)
木村重成
母が豊臣秀頼の乳母であった重成は、豊臣秀頼とは乳兄弟の関係で幼少より小姓として秀頼に仕え、大坂冬の陣に参加し、井伊直孝や松平忠直の部隊に損害を与え、大坂冬の陣における和議の席では豊臣秀頼の正使として徳川秀忠と会見し、その姿勢が礼に叶っていると評価されています。翌年の大阪夏の陣で井伊直孝の隊と激戦を繰り広げ戦死します。その後で行われた首実検の際、重成の頭髪に香が焚きしめてあり、家康を感嘆させたという逸話も残っています。こうした一連の働きによって全国に名を広がっていきました。
篠井雅楽助(しののいうたのすけ)
本多政重の家老で、千石。25歳の時大阪の陣に出軍し武功を上げ、正保2年(1645)本多政重の子で2代政長が家督を相続した時、幼年のため雅楽助が後見になったといいます。
(真行寺門前の案内板)
真行寺の寺宝は、大黒天木造を自仏で運慶作と伝えられています。また、前田土佐守家家臣の武人画家矢田四如軒の掛軸、秘岩摩図。六地蔵尊画像中軸二幅を所蔵しています。大般若経六百巻写経の十二箱も、当山十四世宝慈長山大和尚の手(写経)によるもので、毎月1日15日、24日に転読します。
矢田四如軒(やたしにょけん)
矢田四如軒は江戸中期に加賀藩で活躍した画家で、加賀八家前田土佐守家の家老矢田六郎兵衛広貫として5代当主直躬6代直方に仕えた武人画家です。四如軒の画は、筆に勢があり、いきいきとした絵が特徴的で、多様な画題で多くの画を残しています。
(門前から本堂)
[厄除地蔵尊]
真行寺の厄除地蔵尊は、開基州岩が、木村重成の菩提を弔う為に草庵に地蔵菩薩を安置し、多くの人々の浄財喜捨で日夜供養していたところ、ある夜、夢の中に地蔵菩薩が現われて堂字の建立を望まれ一層信仰を深め、大いに勧進に努めたと伝えられています。
(無漏塔))
その後、地蔵尊は病厄災厄を除く霊験が多いと云われ、厄除地蔵尊として多くの人の信仰を集め、更に道路区画整理等の理由で近くの一本松、揚地町、笠舞などの町内各所に安置されていた多くの地蔵尊を地蔵堂に合祀することになり、明治41年より毎年8月21日22日に、各町の有志が集まって協力奉仕して大祭を執行、各町各家の家内安全、息災延命、厄難消除とご利益加護を祈念しています。
(地蔵堂)
(お地蔵さんの逸話が幾つか伝えられています。例えば、横向き地蔵は、笠舞の刑場に引かれていく罪人を哀れに思って石の地蔵様が、横を向いて見送った。とか、処刑される罪人が、地蔵様を目で追った姿を後に家族が仏師に頼んで彫らせたなど・・・、語り継がれています。)
(地蔵祭の地蔵さん)
[現在の地蔵祭]
「厄除け地蔵尊」は、病厄、災厄、歯痛、耳痛など顔から上の病気に御利益があるといわれ、毎年8月22日夕方7時より法要が行なわれ、地域の夏祭りとして親しまれています。町内会の有志のお世話もあり、認定子ども園真行寺六美苑の苑児が可愛らしい盆踊りや保護者会による露店も開催され、今も大層な賑わいになります。また、春の降誕会「花まつり」は、真行寺六実苑の前に、甘茶を供し、道行く方々にふるまわれています。
(六美苑)
(境内の六美苑の運動場)
真行寺の境内は、今は認定子ども園真行寺六美苑の運動場に整備されていますが、本堂右手のお釈迦様の母上摩耶夫人の名前が冠せられた摩耶紅が大切に残されています。本堂左手の中庭には、大きな鯉が、また、季節々々には草花や樹木が美しいらしい・・・。
(境内の魔耶紅)
(中庭)
[金沢地蔵尊四十八ヵ所巡礼 第二十四番]
御詠歌
「たかきみね さきだつひとを みるからに われもゆくべき みちをしるかな」
(安政期の真行寺周辺の絵図)
参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和7年発行 ほか