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欠原(がけはら)崖上のお寺②慶恩寺

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【石引2丁目】

浄土真宗大谷派加須良山慶恩寺は、延徳3年(1491)の創建と伝えられています。開基小山慶心坊(慶信とも)は源(多田)満仲の後裔で大和国(一説には河内国)小山の郷士の家に生まれ、世の無常を感じ得度し、蓮如上人の弟子になり各地を巡ったといわれています。

 

 

(現在の慶恩寺門前)

 

門前の案内板や由緒書などによると、僧慶心(慶信とも)は天文15年(1546)金沢御堂建立にともない本願寺の命を受けて、御堂衆として金沢御堂に派遣され寺の守護を、また、布教にあたる傍ら自坊を建立しました。寺の名前は、本願寺9代実如上人の院号教恩院の「恩」の一字を拝受し慶恩寺としたそうです。

 

 

 (御堂前)

 

その後、越中から飛騨にかけて布教にあたり、90才に飛騨白川郷加須良で示寂。山号“加須良山”は、この事に由来といわれています。寺は木ノ新保から犀川河原町(現片町)を経て万治元年(1658)現在地に移ります。

 

 

 (安政期の慶恩寺周辺図)

 

■一向一揆の経緯と慶心坊

加賀では蓮如上人の一向宗が勢力をもち、長享2年(1488)に富樫政親を滅ぼした連枝の三山(波佐谷松岡寺、若松本泉寺、山田光教寺)の大坊主と土豪とよばれた郷士が主導権を握り、以後、三山と同じ連枝の鶴来清澤願得寺の4ケ寺などが指導する加賀一向一揆(小一揆)は加賀国の実権を握っていました。

 

(連枝:根幹を同じくする枝々が連なっている様子をいい、ここでは蓮如上人の子の寺をいう。)

 

 

(金沢御坊・現金沢城址公園)

 

享禄4年(1531)加賀に亡命していた越前出身の加賀の超勝寺と加賀の本覚寺が本山本願寺と結びついて大一揆と呼ばれていて、その大一揆、小一揆の両者は対立。周辺の土豪も介入し軍事衝突します。この戦いを「享禄の乱(大小一揆)」と呼ばれています。結果、大一揆が勝利し本願寺は小一揆を指導した僧を処刑します。

 

 

(門前の案内板)

 

さらに末寺の統率のために天文15年(1546)本願寺は今の金沢城址の地に金沢御堂(尾山御坊)を創建され、やがて加賀は本願寺の直接支配が進み、慶心坊は坪坂伯耆守、七里駿河守らと本願寺の命により金沢御堂(尾山御坊)へ派遣されました。

 

(崖の石垣の上は慶恩寺)

 

[参考:本願寺証如の日記である「天文日記」の天文15年(1546)年1029日の条]

「加州金沢坊舎へ本尊 木仏 開山御影 太幅也 御伝、泥仏名号 賛書之 実如影差下之。三具足其外仏器、燈台以下悉道具共下之。 為堂衆、広済寺 慶信差下之。」

 

[参考:「天文日記」の天文15年(1546129日条]

「加州金沢一宇へ、七高僧、皇太子下之。」

これは「慶信」「金沢御堂建立」についての基本史料で、同時に、金沢という地名の初見だそうです。

 

 

(門前の枝垂れ桜)

 

[慶恩寺の枝垂れ桜]

慶恩寺の枝垂れ桜は、お寺に馴染んでいて、大昔があるように思われますが昭和18年(1943)に植えられたものだそうです。樹高 16m、幹周 2.5m、枝幅 12m。昭和63年(1988)に金沢市の指定保存樹となっているそうです。

 

 (枝垂れ桜)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和7年発行・「小立野公民館創立50周年記念誌」小立野公民館 平成96月発行ほか

 


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