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欠原(がけはら)の崖上のお寺①棟岳寺

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【石引2丁目】

曹洞宗宝林山棟岳寺の開山は大空玄虎大和尚活性禅師で、永原氏(赤座氏)の菩提寺です。永原氏は、藤原鎌足の子孫といわれる赤座氏で初代にあたる赤座直則(赤座但馬守景秋)、2代赤座直保(但馬長秋)は朝倉氏の家臣といわれ、明応元年(14922代赤座直保(但馬長秋)が父母の菩提供養のため越前南条郡新道村に建立しました。2代赤座直保(但馬長秋)は、両親の御恩を忘れない心の証として建てられた寺で、両親の戒名から一字ずつ戴き洞獄寺とし創建します。

 

(新坂上の門前)

 (棟岳寺のある永原氏(赤座氏)累代の墓)

 

赤座氏は、後に織田信長、豊臣秀吉の家臣として仕え6代赤座直保(吉家)は小田原征伐では石田三成の麾下で武蔵岩槻城、忍城の攻略に参加し、この功によって従五位下備後守に任官、越前今庄2万石に加増され大名になりますが、その地位は小早川秀秋や堀尾吉晴の与力であり、独立した大名ではありませんでした。

 

 (6代直保(吉家)の墓)

 

「関ヶ原の役」では、初め西軍の大谷吉継の軍に属し、本戦で小早川秀秋が東軍に寝返ったのに呼応し東軍に帰しますが、事前に通款を明らかにしなかったとの理由で、戦後、徳川家康にその功を認められず所領を没収されます。その後、6代直保(吉家)は京に住み、慶長6年(1601)に前田利長公に仕え金沢に移ります。洞獄寺を慶長8年(1603)下屋敷の移し、慶安2年(1649)加賀3代藩主前田利常公より新に今の小立野(現石引2丁目)の地を賜り移転。そのときに棟岳寺と改称します。

 

(由緒書の案内板と門前)

 

 

尚、6代直保(吉家)は、慶長11年(1606)越中大門川の氾濫の検分の際、濁流を渡河中に落馬、溺死します。その後、子の孝治は永原と改姓し、幕末まで、小立野に上屋敷や下屋敷や支家がありました。

人持組の永原左京(5千石)を始め永原大学、「御馬廻」に永原内膳、永原五郎左衛門の子弟か一族が寛永19年(1614)の小松侍帳に記載されています。)

 

(赤く塗られているのは、小立野にあった永原家の屋敷と下屋敷・支家の家)

安政の地図より

 

 

棟岳寺の墓地には、永原家(赤座氏)の累代の墓の他、幕末、武田耕雲斎率いる天狗党を讃えた「水府義勇塚」、天狗党の救済に尽力した「永原甚七郎」の墓、前田家お抱えの日本最初の蘭方内科医吉田長淑が金沢で没し、金沢の弟子たちでつくられた「吉田長淑」の墓や前田家の主治医を代々務めた家柄の「江間家」の墓があります。

 

 

(水府義勇塚)

 

[水府義勇塚]

幕末、水戸勤皇の天狗党の志士の鎮魂と顕彰のため建立されます。元治元年(1864)支族の永原甚七郎は、加賀藩の天狗党追討軍の責任者に任命され、幕府の指示にしたがって千余名の軍勢を葉原村まで進出します。

 

 

(永原甚七郎の墓)

 

■水戸の天狗党

水戸の「天狗党」とは、水戸藩の尊王攘夷派の呼び名で、天皇を尊び,外国の勢力を打ち払おうという思想で,幕末にさかんに唱えられ、多くの志士たちをつき動かしました。元々水戸藩は、その尊王攘夷思想の発信地でした。

 

水戸藩の尊王攘夷思想は、2代藩主徳川光圀(水戸黄門)が始めた歴史書「大日本史」の編さんを通じて形成されたもので、幕末、強硬な攘夷論者であった9代藩主斉昭は、文政12年(1829)に藩主になり、学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し、積極的な藩政の改革を行います。ペリーの来航で対外危機が高まると,斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、斉昭とその側近の藤田東湖は,全国の尊王攘夷派のシンボル的存在となっていきます。

 

しかし、幕府は大老井伊直弼によって開国が実施され、斉昭と対立しますが、水戸藩の浪士によって引き起された「安政の大獄」で処罰を受けます。その後、藩内では「天狗党」とよばれる尊王攘夷派(斉昭の改革支持賛成派)と「諸生党」とよばれる保守派(改革反対派)との対立が激しくなり、元治元年(1864)、水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって筑波山で挙兵します。それを「天狗党の乱(元治甲子の変)」いわれています。

 

そこで天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(斉昭の七男で後の15代将軍)の力を借り、朝廷に尊王攘夷を訴えることを決め、元家老の武田耕雲斎を総大将に、元治元年(1864111日、約1000人の大部隊で、京をめざして出発します。

 

しかし、たのみにしていた一橋慶喜の命で諸藩から1万数千人ともいわれる兵を集め、その追討軍の指揮を執ります。天狗党一行がさんざんの苦労の上、新保(現在敦賀市内)という小さな村落にたどり着いたころには、一行をすっかり追討軍に取り囲まれていました。しかも天狗党の首脳は、先に進むことをあきらめ新保の近くに陣をしいていた加賀藩に降伏します。京都へ向けて出発してから50日余りでした。

 

降伏した天狗党は、敦賀の寺に収容され、その後肥料用のにしんを入れておく蔵に移されます。火の気も布団もないうす暗い蔵の中では、厳しい寒さと粗末な食事が原因で,20数人が病死し、死罪352人・島流し137人・水戸藩渡130人。この類を見ない大量処刑に驚いた薩摩藩の大久保利通は,その日記に「このむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記していそうです。

 

[参考:永原甚七郎と天狗党]

田上志平のブログ

幕末明治期の人間模様

第38話 永原甚七郎―天狗勢救済のために幕府と戦った男―

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwi9ys3xyfjUAhUMW7wKHfMxDDUQFggiMAA&url=http%3A%2F%2Ftagamishihei.cocolog-nifty.com%2Fblog%2F2011%2F08%2Fpost-0595.html&usg=AFQjCNHcFTiaixxjKHSPC7007ct_JPn67g

 

[永原甚七郎の略歴]

永原氏の支族で、加賀藩で500石を食み、初め大小将(姓)組に属し馬奉行でしたが、嘉永6年(1853)に作事奉行になり馬廻番頭を兼ねています。文久3年(18645月頭並に進み、元治元年(18648月、京に滞在中馬廻頭兼聞番となり、次いで水戸浪士(天狗党の乱)防禦の事に従い功績を挙げ、翌年秩祿300石を加賜されます。慶應3年(186710月甚七郎銃隊馬廻頭並に補せられ、姓を旧姓の赤座に復し、明治2年(18693月職制改革のとき学政及び軍政寮の副知事となり、後に参事になる。明治6年(1873114日没す、享年61歳。墓は棟岳寺に建てられました。(参考:加賀藩史料第5章 加賀藩治終末期・加能郷土辞彙等)

 

 (ローマ字紋がある吉田長淑の墓・下に金沢の医者が連名で刻まれている)

 

[吉田長淑のお墓]

吉田長淑は、名は成徳、字は直心、号はほかに齣谷、蘭馨。幕臣の子で安永8年(1779)江戸に生まれ、後に母方の親戚である吉田家の養子になります。蘭方医・桂川甫周や宇田川玄真の私塾「風雲堂」で医学、蘭学を学び、蘭方医学のうち内科の分野を極め、日本初の西洋内科専門医となり、日本における内科医学の発展に大きく貢献しました。

 

(吉田長淑の墓に刻まれた紋?蘭医だから?)

 

 

(よく似たオランダ西インド会社のマーク)

 

私塾「蘭馨堂」を開き後進の指導にも力を注ぎ、高野長英、渡辺崋山、小関三英など多くの逸材を輩出します。長淑の死後、彼らら弟子たちにより結成された蘭学グループ「尚歯会」は幕府の弾圧に抵抗しながら幕末の日本を動かす原動力として重要な役割を果たします。

 

文化5年(1808)加賀藩11代藩主前田治脩が江戸藩邸で病に倒れ、師の宇田川玄真が治療に功をなし、師宇田川玄真が加賀藩から招聘を受けるが固辞。代わりに推薦されたのが高弟藤井方亭と吉田長淑でした。吉田長淑は以後加賀藩の庇護を受けることになります。文政7年(18247月、加賀藩主前田治脩が病に伏し、大恩に報いるため、金沢へ急行軍で駆けつけますが、旅の無理がたたり長淑自身も旅路の途上で倒れ加賀に辿り着いた時には藩主治脩は亡くなっていました。失意の中、翌月の文政7年(1824810日死去します。享年47歳。

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和7年発行・「小立野公民館創立50周年記念誌」小立野公民館 平成96月発行ほか


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