【石引2丁目】
藩政期の金沢城下では、お城を中心に、計画的につくられた武家屋敷と、自然発生的な町地が混在していますが、平地で比較的良いところは藩の施設や武家屋敷(足軽組地も含)、寺社で占められ、御用商人などの裕福商家は、目抜き通りや街道筋に面したところに店を構えそこに住みますが、多くの職人や商家、武家の奉公人は、町に近い卯辰山や小立野の崖際等の借家住まいで、他にお寺の門前、農地を宅地にした相対請地に住んでいました。
(昔はこの崖上に民家があったらしい)
(明治4年(1871)の金沢では、町地は城下全体の約28%(城下全体で730,2haその内町地205,3ha)で、町人は全人口の約60%前後、武家に人口は約40%前後でした。註:藩政期の統計は、武家、町人が別々でしかも15歳以上というのもあり、最も近い明治4年(1871)を参考にしました。総人口122,900人 武家48,100人 町人 74,800人・土屋敦夫 (1980))により、参考は金沢 wikipedia)
(小立野の安政期地図・尻垂坂・欠原町・中石引町)
[欠原の町人伝説1:中石引の下駄獅子]
昔、中石引町会は、評判の沢阜匪石(さわおか・ひせき)に獅子頭の制作を依頼し、彫刻料を前渡したところ、その前渡金がほとんど遊里に消えてしまったと言います。そこで匪石は一策をひねり、遊里の芸妓の履いていた古下駄を買い集め、それをつなぎ合わせ獅子に仕上げたそうです。この言い伝えから中石引町会の大と小2体は下駄獅子と名付けられたという。昔から大獅子を出せば必ず雨が降ったらしく、祭礼には小獅子だけしか廻さなかったと言われています。
(旧欠原町)
また、沢阜匪石が制作した「義侠の獅子」は、明治中期、ある穀物商の土蔵に保管されていましたが、丑三時になると、異様な泣き声を立てたと言われています。祭壇に獅子を祀り、神主を招いて鎮魂祭を催したところ、その泣き声は消えたそうです。
(沢阜匪石(忠平)は永田流彫刻で加賀金沢藩の抱えの細工人。摂津尼崎(兵庫県)出身といわれ欠原町の住人だったと伝えられています。腕は抜群でしたが、とにかく酒癖が悪く、酔えば人と口論もすれば喧嘩もするので時には世間の義理を欠くことあり、世帯は何時も火の車で生活に窮していたらしい。)
(旧欠原町)
[欠原の町人伝説2:長寿の横濱屋権兵衛]
笠舞がけ原町に居住した横濱屋九郎右衛門の親父権兵衛は、享保9年(1724)の生まれで、文化10年(1810)90歳になり藩主より「養老扶持米」を賜って、親族の介抱方を申し渡され、それより20数年余り壮健だったらしく天保7年(1836)12月15日老病で没したそうです。その時、113歳で、その頃、100歳以上の男女数名はいたのですが、男子では随一だったそうです。
(養老扶持米は、寛文10年(1670)8月、5代藩主綱紀公によって城下の貧窮裕福に関わらず男女90歳以上の高齢者に与えられる制度で、毎年100歳を越える長寿者が町会所に書留められ、以来、約200年の間に90歳以上の長寿者は数千人に及んだといわれていますが、100歳以上ともなると、わずかに127人。男は24人、女103人という、今も昔も男が少なく、最高齢は、118歳の後家(女)で、次は117歳の男性、3番目が113歳の横濱屋権兵衛だったそうです。参考:中島勇著「藩政期の長寿と福祉」平成18年度石川の博士論文集より)
(崖下を流れる勘太郎川)
[欠原の町人伝説3:尻垂坂、荷車押しの出世話]
子どもの頃、祖母だったか近所の人だったか忘れてしまいましたが、この欠原伝説を書くにあたり、“うろ覚え”の隣町の話しが蘇ってきました。今は調べる術がありませんので記憶を辿るだけですが、それは藩政末期、欠原町に住む、能登出身の方の話でした。毎日毎日、尻垂坂(現兼六坂)に通い、荷車を押したり引いたりして、一回一文の駄賃稼ぎを繰り返し、辛抱に辛抱を重ねて表通り(中石引町)に店を構えたという出世話ですが、60余年も前に聞いた話を“うろ覚え”にしろ思い出させるのは何なんでしょうネ?辛抱をしたら出世出来る?いや、一回一文(約20円)塵も積もれが山という教訓?いやいや、欠原町、尻垂坂(現兼六坂)、中石引町という昔の名前が思い出されるから? 子どもの頃は吸収力もあり真剣に聴くからか?最近の事は直ぐ忘れてしまうのに・・・
(尻垂坂(現兼六坂)は、今のように勾配が一定ではなく、殆んど今よりなだらかで、下の一部が急坂になっていたらしく、そこに何人かの人夫がいたそうです。)
(尻垂坂・現兼六坂)
参考文献:「小立野校下の歴史」園崎善一著 平成13年4月発行 「先人群像・沢阜匪石」八田健一石川県図書館協会 昭和30年発行 「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行ほか