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旧欠原町②今昔あれこれ

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【石引4丁目】

藩政期から受け継がれた「欠原町(がけはらまち)」という町名は、明治になり上欠原町・中欠原町・下欠原町と呼ばれていましたが、現在、日本では皆無の町名になっています。その経緯は、昭和37年(1962)当時、郵便配達で細々した町名が遅延の原因だという触れ込みから町の合併などで住居表示が変更になり、歴史・伝統・風情がないがしろにされ金沢から、いや日本から「欠原町」など多くの町名が消えてなくなりました。小立野公民館の資料に「・・・・爾来90余年を経た昭和38年(1963)の住居表示の改正で、伝統的な欠原の町名が失われ、広範囲な石引2丁目の中に包含されたことは遺憾なことであった。」と地元の方が書かれています。

 

 

(空地から寺町を望む)

 

 (旧中欠原町から新坂を挟んで旧上欠原町)

 

(昭和37年(1962)、金沢市が「住宅表示に関する法律」の実験都市に指定されことにより、933町あった町名が約520町になります。生真面目で新しもん好きの金沢人は、古き良さを省みない当時の風潮もあり、一周遅れと言われた現状の打破と未来を夢見るあまり、何処よりも先に取組みます。当時、校下(区)ぐるみで異を唱えたところもあり、今も昔の町名が残る地区があります。なお、平成11年(1999)主計町を皮切りに翌年の下石引町、飛梅町が旧町名に復活し、平成21年(2009)の上堤町まで、現在11の町名が昔の名前に復しています。)

 

 

 (上欠原坂・下は勘太郎橋へ)

 

(上欠原坂より真行寺の坂へ)

 

「旧上欠原町」は、今、二十人坂の途中から入ると右手の石引側に慶恩寺の立派な石垣が続き、左手には勘太郎橋に通じる上欠原坂が、右手は真行寺へ上がる階段で、上欠原坂は石引の大通りに繋がっています。さらに道なりに歩いて行くと片側に昔ながらの雰囲気が伝わる家々が並んでいます。

 

 

(旧中欠原町至る嫁坂)

 

(旧上欠原町より旧中欠原町へ)

 

(嫁坂上付近の地図)

 

(赤鳥居の横小路より笠舞の町が見える)

 

シンボル赤鳥居(菅原神社)横の小路は階段の坂で、左右の崖には石垣が積まれ、かっては家が建ち並んでいた様子が窺えます。今も数軒の家が残っていて、さらに行くと坂下の用水(勘太郎川)に繋がっています。引き返すと、小路の階段はかなり急で年寄りには息が切れます。

 

 

(眺めの良い、赤鳥居の横小路下り坂)

 

地元の人が書かれた文に「赤鳥居の隣の坂は40数段あり、下の用水は、町の人達の洗濯場、しゃがんで子や夫を思いながら、悲しい時には石段を駆け上がり、赤鳥居をくぐり、菅原神社の守り神に思いのたけを話した。」と書かれていたのが印象的です。赤鳥居は、春525日、秋1025日、神主が出張され、祭礼が行なわれ、元旦は地元の人が参詣し、3日には、町内の新年祈祷祭が執り行われているそうです。

 

 

(赤鳥居の横小路、急な石段、下には用水が流れている)

 

また、地元の古老の話として、明治には市中にあまりなかった蕎麦屋があり、店内でお客様が食べるのではなく、「蕎麦切」を今風に言えばテイクアウトしていたらしい・・・。それから食べ物関係では、金沢に一軒しがなかった“どじょうの蒲焼屋”があり多くの人を集めていたらしく、向かい側に大きな生簀(いけす)があり、苦労をして新潟県から荷車で運んできたそうです。荷車は中石引の大通りから二十人町一番丁から慶恩寺の裏から上欠原町に入ったとか・・・。

 

 

 

(どじょうの蒲焼・イメージ写真)

 

「旧中欠原町」は、新坂を跨ぐと少し上り坂になり中坂から嫁坂まで、何れの道も、緩やかな曲りと起伏に富んで道でもあり坂道でもあります。元々、小立野台地の崖の中腹に昔の人が手作業で造成されたもののように見受けられます。新築や改築の家はありますが、風情は私の若い頃と、余り変わっているように思えませんが、強いて言えば、石引側の崖上が上欠原では昔から変わらずお寺ですが、中欠原は、近年高層のマンションが建ち並び様変わりしています。

 

 

(旧中欠原町・上には高層のマンションが・・・)

 

(始まりと終わりは高低差が余りなく、上り下りを繰り返す山道のような道で、昔の土木工事の限界を感じられます。)

 

(今、二十人坂より旧上欠原町へ)

 

旧上欠原町も、旧中欠原町も、右手の石引側には石垣はそそり立ち、反対の犀川側は崖際の民家の間にある細い小路や空き地から遠く寺町台が望めます。

 

 

(二十人坂の一本松陸橋)

(登りの二十人坂と一本松のさくら)

 

二十人坂は、昭和14年(1939)当時、寺町台に旧陸軍第9師団の砲兵隊の兵舎があり、そこから射撃訓練場に向かうのに小立野台地を通過しなければならないことから二十人坂が造成されました。崖に二つの陸橋(一本松陸橋・揚地町陸橋・昭和134月架橋)を架け緩やか坂を造り、二十人町1番丁から下菊橋、そして寺町台へ繋がります。それまでは曲がりくねった急峻な上欠原坂を、兵隊さん達が大砲を引き上げていたそうです。因みに一本松の桜は、紀元2600年(昭和15年・1940)を記念して植樹されたものだそうです。

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和7年発行・「小立野校下の歴史」園崎善一著 平成134月発行・「小立野公民館創立50周年記念誌」小立野公民館 平成96月発行


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