欠原(かけはら)を「がけはら」と読むのは、崖縁の町で藩政期は地子町(町地)で笠舞がけ原、がけ片原などと呼ばれていたことによると言われています。欠原町が文書に出てくるのは、寛政11年(1799)5月、欠原町一帯が地震のため人家の倒壊があったことを書いた政隣記(加賀藩士津田政隣(700石)が藩の政治経済文化の重要事を年月日順に記した記録)や文政7年(1824)の「道橋帳」にも「欠原町」が書かれています。明治4年(1872)には上・中・下欠原町となります。昭和39年(1964)4月、町名変更で 石引2丁目・本多町1丁目になりました。
(欠原のシンボル赤鳥居)
(地子町(じしまち)は藩政期、町奉行の管轄で金沢の町人が住む町地をいい、地子銀(土地に対する税)を払う町。他に町地は地子銀免除で夫役と役銀を課せられた町格最上位の本町次の格付けの七ヶ所があり、後に寺社門前地が含まれました。)
(がけはらまち・標柱の側面より)
(一、小立野欠原町橋渡弐間弐尺、幅七尺、川除石垣共、橋台口樋三ヶ所長六尺、太サ壱尺 「道橋帳」より)
藩政期の欠原町は、国本昭二著「サカロジー」などによると、欠原町、新坂町、嫁坂町と呼ばれていたと書かれています。一部引用すると、欠原町(現石引2丁目・旧二十人町の南側)は二十人坂から新坂までをいい、慶恩寺や真行寺、棟岳寺といった寺院の南側傾斜地に沿って一本の道が通じています。北側には寺院の石垣が連なり、南側には家々が軒を連ね、所々住宅の途切れた空間からは笠舞・本多町方面の風景が望める風情のある道と書かれています。
(安政の地図)
藩政期の嫁坂町(現石引4丁目)は、嫁坂は藩政時代初期、篠原出羽守が娘を本庄主馬に嫁がせる時に、荷物を運ぶために切り開いたと伝えられる坂道で、寛文11年(1671)の文書に「小立野嫁坂」の名があり、元禄9年(1696)には「小立野嫁坂町」、文化8年(1811)の金沢町絵図名帳では「嫁坂町」に、明治4年(1872)、中欠原町(なかがけはらまち)となります。北側の大乗寺坂は未整備だったとみられます。
(今の嫁坂)
藩政期の新坂町(現石引2・4丁目、現本多町1丁目)は、嫁坂の東側に新しく造られたので新坂の名がつけたれました。併称ではなく新しい坂としては当初から独立した名で、小立野新坂、笠舞新坂と呼ばれた時期もあり、嫁坂との中間には中坂があり、明治4年(1872)まで中坂町があって後中欠原町になり坂は一部新坂に統合されます。
(新坂上)
(明治後期の地図)
(藩政期から明治中期に発行された地図の新坂を追ってみると、今のように旧上鷹匠町から降り、途中で直角に曲る下の道はなく、真っ直ぐ今の勘太郎川に降りる道(階段と坂の併用)に繋がっていて、その辺りが新坂町になっています。何時からか、今標柱の有るところから広くなり直角に曲った道が造られ、それも含め“新坂”と言うようになったのでしょうか?手元の資料では、明治の後期だとされる「稿本金沢市史」の地図に、(赤いところ)少し現状と違いますが曲がった坂が描かれています。)
(今、新坂と言われているところ)
(上の写真の坂上にある標柱)
明治期から昭和の町名変更まで下欠原町といわれたところは、加能郷土辞彙に、欠原を「・・・・俗に“がけ”と呼ぶ。この坂は大乗寺坂の高。鷹匠町の末の崖縁を通り、嫁坂・中坂・新坂高から二十人町を経て波着寺前へ出る間の片原町である。・・・・・明治十九年五月に出羽町・鷹匠町の邸地が軍隊の用地となった頃、欠原町も嫁坂以西は悉く家屋を毀ち、練兵場の地内になった。」とあり、5万余坪の練兵場は、崖地の一部が嵩上げされて、明治後期から戦後数年の地図には地籍は残っていますが民家を建っていません。
(旧下欠原町・明治に出羽町練兵場、現在は石引4丁目)
(明治4年(1871)の戸籍編成のとき町名が改められ、旧欠原町を上欠原町、旧中坂町、嫁坂町、瑞光寺門前が合併して中欠原町、裏石引町の16軒、本行寺門前、長谷院門前を合併して下欠原町になりました。)
赤鳥居のこと
通称「赤鳥居」といわれる菅原神社は、藩政期、鷹匠町(現石引2丁目)の藩士津田家(1300石)の邸内社で、明治13年(1880)、東照宮(現尾崎神社)の神職高村勝久が現在地に移し、近隣の崇敬者が「赤鳥居奉賛会」を結成します。大正13年(1924)には、新坂上(現石引2丁目)の金森家邸内社「金比羅社」を合祀したと石川県神社誌にあります。また、文化8年(1811)の「金沢町絵図」には、現在の場所に鳥居が描かれていて、「山伏宝祐」と書かれていますが、赤鳥居だったのか?祭神が天神さんであったのかは分りません。
(つづく)
参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和7年発行「サカロジー ― 金沢の坂」国本昭二著 時鐘舎新書 平成19年発行