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お地蔵さんと善光寺坂②

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【小立野1丁目→笠舞1丁目】

前回にも書いた、善光寺坂よりお地蔵さんが先にあったという説があります。始めは“長野善光寺の地蔵尊”と呼ばれ、今は“善光寺坂の地蔵尊”ですが、お地蔵さんが坂の名の元になったという伝説は、坂道標柱にある「昔この付近に善光寺という寺があったのでこの名で呼ばれている」など、通説に真っ向からの挑戦で、しかも、その伝説は満更でもないかも・・・とか?

 

(お地蔵さん)

 

 

[善光寺坂の地蔵祭]

今回は、それはそれとして、長い間、続けられている「地蔵祭」とお地蔵さんにまつわる不思議な話を進めていきます。「地蔵祭」は、従来、お地蔵さん(六道能化地蔵菩薩)が贈立されたとされる宝永4年(17071024日、以来、小立野講中の方々で、300余年間守られてきたといいます。

 

 

 (地蔵祭の地蔵堂)

 

今の「地蔵祭」は、小立野講中の代表として10人位の役員が御世話しているそうです。縁日は毎年823日から25日の3日間行なわれていますが、8月に入ると講中の方々に志納袋が配られ、23日は朝早くからお堂が開き、夜は宝円寺の下寺の僧侶により読経とご詠歌が上がり、24日の中日は宝円寺の住職の説教があり、25日は読経のあと後始末が行なわれるそうです。3ヶ日で上がる志納袋や賽銭は宝円寺に納め、祭りの経費はお寺持ち、お供え、お花・蝋燭代などは地蔵講の年会費でまかなうそうです。

 

地元が発行する冊子では、昔(多分戦後しばらくまで)、金沢でも盛大で有名だったとか、町民はじめ隣町からも参詣者が多くやってきたと書かれています。普通の日でも朝に夕にお参りの人のあとが絶えなかったそうで、その頃は、歴史や由来よりも、噂や言い伝えから霊験あらたかな地蔵尊だと言われていたようです。

 

 

 (床屋前の三角形の土地)

 

「地蔵祭」には、向かいの床屋の前の三角形の土地に、町の若い衆が屋台を組み、屋台の上では寸劇やら万歳などが夕方から12時頃まで、子どもから大人まで見物人も多く、町の人は提灯を持ち警備にあたったそうです。

 

 

 

 (善光寺坂)

 

[お地蔵さんにまつわる不思議な話]

明治時代、上野町に目の不自由な夫婦が住んでいて、その家から夜中に出火してしまいました。その時「火事やぞ!!」「火事やぞ!!」と叫び起してくれたのはお地蔵さん!?では無いかと言われています。

 

 

 (地蔵堂)

 

昔、堂が雨漏りをしていて、ある日、付近の店に見知らぬ大きなお坊さんが現われ、笠を買っていかれました。数日たってお堂のお地蔵さん見ると、その笠をかぶっていたそうです。もしかして大きなお坊さんは、お地蔵さんだったのでは!?

 

朝の早いうちから夫婦で働きに出ていて、夕方に帰ると洗濯物が家の中に取り込んでありました。誰に聞いても知らんと言うし、きっとお地蔵さんが片づけてくれたんやという事になった!?

 

(地蔵堂から下に広がる笠舞の町)

 

戦前に演習帰りの疲れきった兵隊さんが通りかかり、居眠りしていて馬といっしょに坂から谷へ転落したそうですが、馬も兵隊さんも怪我一つしなかったといいます。

 

 

 (笑っているようなお地蔵さん)

 

最近でも、近くでは事故が起こっても不思議と怪我がないらしい・・・などなど、大きな体は数多くのお地蔵さんの中でもめずらしく、いつも柔和な顔で私たちを見守って下さっています。

 

 

(上野八幡宮の前の辰巳用水)

 

(辰巳用水の分水口)

 

 (左湯涌・右犀川方面)

 

戦後の話ですが、大雨が降ると上野八幡宮(マルエー)の前の辰巳用水の開渠部分の水門にゴミがつまり溢れるということから、、昭和52(1977)53年(1978)に、「三口雨水幹線」が整備され、善光寺坂を掘り返し地下に水が流れようにしたそうです。 約400年前、大清水から水を上げるため善光寺坂が造られたのに、昭和には下へ流れるようにと、上げたり下げたり!!時代のニーズはサカ(坂)だけにサカサマにすることもありますネ・・・。

 

(大清水)

 

参考文献:「さきうら」金沢市崎浦公民館 平成145月発行・「小立野校下の歴史」園崎善一著 平成134月発行・「小立野公民館創立50周年記念誌」小立野公民館 平成96月発行


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