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お地蔵さんと善光寺坂①

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【小立野3丁目】

善光寺坂のお地蔵さんは、小立野3丁目から下り三口新町の交差点へ抜ける善光寺坂上の地蔵堂に祀られています。礎石には「六道能化地蔵菩薩(ろくどうのうけじぞうぼさつ)」と彫られ、背丈は7尺((実測、像の高さ175㎝、礎石25㎝)といわれ据付けられているのは、お堂の床ではなく地面に立っているそうです。因みに、今のお堂は昭和54年(1979)に建て替えられたものだそうです。

 

  (地蔵堂)

 

(お地蔵さんは薄青色の越前石(芴谷石・しゃくたにいし)で造られ、地元の古老は「雨露風雪にさらされた汚れや染みが皆無であるのは、最初から堂内に安置されていたものと思われる」そして「これほど大きく立派な地蔵尊やお堂は珍しいとせねばなるまい」と言っていたそうです。また、善光寺坂上に立つ“標柱”には、「昔この付近に善光寺という寺があったのでこの名で呼ばれている」と刻されています。坂道の標柱ですから当然でしょうが、お地蔵さんについては何にも書いてありませんが、何やらお地蔵さんも善光寺坂も由来を知りたくなりました。)

 

 

  (お地蔵さん)

 

お地蔵さんや善光寺坂には伝説や不思議な話が語り継がれています。今回はそれらの話を検証することなく書くことにしました。と言うのもお地蔵さんや善光寺坂には昔から諸説あり謎も多く、学者や地元の郷土史家も研究なさっていますが、史料・資料が乏しくて. 歴史的実証が難しく、真偽不明のまま今に至っているらしい・・・。

 

  (善光寺坂上の標柱)

 

[伝説その1]

“お地蔵さんは江戸時代の中期に建てられた!?”

“金澤古蹟志“の善光寺坂の項に「此の坂道は、上野八幡の邊より山里へ通ふ道路也。いにしえ此の地邊に善光寺といへる寺ありし故に、坂名を呼びたるなるべし。」と、お地蔵さんの記載はありません。他の資料にも、坂上の上野新村の上野八幡宮が起点としているかのような記述があり、上野八幡宮が現在地に遷座したのは享保16年(1731)とあり、お地蔵さんは推測ですが、その少し前に建てられたのではといわれています。

 

 

 (旧上野村と突き当たりが上野八幡宮)

 

地元の小立野公民館が平成13年(2001)に発行した「小立野校下の歴史」には、宝永4年(17071024日に建立したと日付入りで書かれています。その根拠として明治38年(190511月、今までの地蔵堂が老朽化したので、再建するにあたりに書かれた再建由緒書の標文には「六道能化地蔵菩薩為法界萬霊造立之 宝永四年亥十月二十四日小立野講中」と書かれているそうです。)

 

 

 

 (坂の上の標柱)

 

[伝説その2]

“お地蔵さん”は“善光寺坂”より先にあった!?

善光寺坂のお地蔵さんの由緒を調べていた地元の郷土史家故野上正治氏の記述によると、善光寺坂の名の由来と思われている善光寺はもともとなかっというもので、お地蔵さんこそが坂の名のもとになっていたと書かれているそうです。これが事実だとすれば坂道標柱をはじめとする通説が覆ることになります。

 

(この野上説は「言い伝え」をもとにしているもので、だれから聞いたかを含めて根拠となる史・資料はいっさい示していないそうです。)

 

 

 (上野八幡宮の入り口・湯涌街道に旧道)

 

 

天正3年(1575)春先の早朝、越前から越中の刀利を通り小立野台地に至る湯涌街道に合掌体の大きな石のお地蔵さんが置かれていたそうです。見たこともない大きさのお地蔵さんで、村の人たちのだれも知らない間の出来事だったそうです。こんなへんぴなところに誰が何のために置いたのだろうかと不思議に思ったそうです。

 

 (地蔵堂の献花)

 

地蔵が置かれた場所は現在の善光寺坂地蔵堂の向かいの旧上野村で、いまはほとんど道路になっていますが、刀利を通り湯涌方面から運ばれたらしいとのことで、村びとがこの辺りから何時も往来している人たちと話し合ったところ長野善光寺が願主の求めに応じ運搬の便がよく石材の豊富な越前で地蔵を造り、願主の要望する場所に安置したのだろうということになったとか、長野善光寺は従来から地蔵を全国各地に配置していて、これはその一つということになり、人びとは地蔵を「長野善光寺地蔵尊」と呼ぶようになったのではないか!?

 

天正8年(1580)織田信長配下の佐久間盛政が湯涌方面の一向一揆を撃破し、金沢御堂を攻撃するため地蔵の前を通りかかる際、村びとたちは巻き添えを食ってはたいへんだと地蔵を寝かせ菰をかけて守り、その春、金沢御堂は陥落しています。佐久間勢の干渉を恐れた村びとは相談のうえ、地蔵の名を長野とは関わりがないかのような「善光寺地蔵尊」に改めたといいます。

 

 (今の善光坂)

 

その後、前田利家公が金沢に入城。幕府は一国一城令で途中の番城が廃城となり、越中・湯涌方面の先端防衛線は小立野台地まで後退します。そのため前田家は文禄4年(1595)上野村に先端防衛を兼ねて練兵場・小立野馬場を設置したそうです。

 

 (今の大清水)

 

ただ、小立野は台地で、馬の飼料となる秣(まぐさ)はあっても水がなく、崖下にある大清水(おおしょうず)を使うことで解消しようと地蔵の横から大清水口まで坂道を開きます。何しろ急な崖路のため、村では人馬の安全と加護を祈願するため、いつしか善光寺地蔵尊は「善光寺坂地蔵尊」になり、坂道は「善光寺坂」と呼ばれるようになったのではないでしょうか・・・?

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和95月発行

「さきうら」金沢市崎浦公民館 平成145月発行

「小立野校下の歴史」園崎善一著 平成134月発行

「金沢の坂道コラム」善光寺坂について書いたコラム(その1~6・番外編)

書いた人 壺中人(ペンネーム・こちゅうじん)

幻の「善光寺」を追う-善光寺坂由来

https://kanazawasaka.com/column/zenkouji.html

 


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