【石引2丁目】
旧二十人町(きゅうにじゅうにんまち)から旧白山町(きゅうしらやまちょう)の波着寺にいたる道に架かる橋は、藩政期から「ぢごく橋」といいました。辰巳用水の分流に架かる橋で、今、分流は雨水が本流に溢れないかぎり流水が少なく、いつもは石引側の溝は流はれなく、欄干は左右が傾いていて、白と赤で塗り分けた鉄パイプ製です。一本松側の谷には木々が鬱蒼と茂り、道(橋)の際には欄干代わりの金網のフェンスで、橋名が分る橋標はありません。
(「ぢごく橋」の一本松側の谷)
(旧白山町・辰巳用水の分流に架かる「ぢごく橋」)
(「ぢごく橋」から石引側の水路)
森田柿園の「金澤古蹟志」には「此の橋は、波着寺前に有り。一説に、此の橋の本名は樹木橋と呼べりともいへり、辰巳用水の落し水に架けたる小橋なれど、昔より橋名を呼び来たり。但し地獄橋の名義は、如何なる由縁より起れるに詳かならず。「じゅもく」を「ぢごく」と呼び誤りたるべし。」とあります。
[二十人町]
藩政初期、小立野二十人町とか小立野足軽町・二十人町といわれ、明組という持筒足軽の組地です。藩政期や明治3年(1970)の金沢の地図には、4筋の道に上から二十人町、御坊町(丁)、公事町(丁)、金屋町(丁)と小名が書かれています。明治の住居表示が上から二十人町1番丁~4番丁になり、昭和39年(1964)4月1日の住居表示変更で白山町や中石引等とともに石引2丁目になりました。
(旧二十人町の標柱)
(標柱の近くの道案内板)
山号は「泰澄山」とも「白山」「白流山」ともいわれ、開祖は空照法師で泰澄太師と同じ越前(福井県)の傑僧でした。越前国足南郡の波着寺の住持のとき、当時、前田利家公が越前府中に在城。出陣には必ず戦勝を祈願した祈願所だったそうで、その頃に天台宗から真言宗に転宗しています。天正12年(1584)利家公が金沢城主になったとき、今の兼六園に寺地を賜り、波着寺を建立しますが、元和5年(1619)現在地に1万坪の替地を拝領し諸堂を移転し、以後、歴代藩主の祈願所となり、毎年11石5斗の祈祷料を下附されています。
(今の波着寺)
[白山町(しらやまちょう)]
波着寺門前と言われたところと寺の敷地を宅地化したところで、明治4年(1871)に波着寺の山号を町名とします。昭和39年(1964)4月1日の住居表示変更で二十人や中石引等とともに石引2丁目になりました。
(藩政期、波着寺の参道・今は白山の坂に通じる旧白山町)
[銃薬合薬所旧地]
この辺りに慶安4年(1651)から7年間、辰巳用水の分流を利用し鉄砲の火薬をつくる合薬所がありました。「菅家見聞録」によると、高原市兵衛という浪人が扶持を得て、御異風組の和田助右衛門や御大工山上善右衛門と話し合いの上、この辺りに水車と合薬所を建てます。明暦3年(1657)に火事に遭い、以後、町中での合薬所を避け翌年万治元年(1658)土清水(つっちょうず)に移り、明治維新まで鉄砲の火薬を製造しました。
辰巳ダムと辰巳用水と煙硝蔵跡見学
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11957259744.html
(手前の歩道の暗渠は辰巳用水・向かいの風月堂の横から一本松へ)
[勘太郎川の起点]
この辰巳用水の分流は、藩政期の延宝や天保、安政の地図や明治12年(1879)の金沢区市街図にも描かれていすが、埋め立てられた分けではないのに、手元にある明治中期から後期、それ以後に発行された地図には描かれていませんが、現在、勘太郎川の起点になっています。
(安政の地図・今の勘太郎川が書かれている)
[余談]
加越能文庫「続漸得雑記」の記事に、文化文政の頃「金沢橋梁ノ名」として64の橋が書上げられています。その中に「ぢごく橋(波着寺門前也)」が香林橋、九人橋、宮内橋、しあん橋、よもんとの橋、くるミや橋等とともに載って、藩政期「ぢごく橋」は、一寸は知られていたことが分ります。今、橋名を知る人は少ないかもネ・・・・。
因みに、この記事の中には、今の浅野川大橋を「夷(えびす)の橋」犀川大橋を「いさごの橋」と書かれています。(金沢市史第二編 城下)
(明治後期の地図・勘太郎川が書かれていない)
参考文献:「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年5月発行 他