【笠舞1丁目】
昔、金沢には「もっくり」と呼ばれる湧き水がいたるところあり、農業用水や家庭で使用されていました。戦後、道路がコンクリートになり浸透水が減り、また、地下水の揚水量が増加し河床が低下し、今はほとんど無くなりました。それでも市内には比較的大きな湧き水が幾つか残っていますが、代表的な湧き水は笠舞1丁目の「大清水(おおしょうず)」です。
(三角形の大清水。一角から辰巳用水の分流へ)
(大清水の解説・はなかけ清水と書かれている金沢古蹟志より)
「大清水」は、善光寺坂を下り右手の石塀の小路を入ると、石垣で囲まれた一片8mぐらいの三角形の浅い池が「大清水」です。今は、深さ12㎝ぐらいでしょうか?水量が減る前の戦後しばらくは、笠舞段丘の中段の僅かな段差際にも多くの湧き水が小さな池を作っていたそうです。「大清水」や小さな池からは笠舞段丘の農地を満たすくらいの水量だったといわれていますが、はたしてどうだったのか?今、「大清水」の三角形の一角を辿っていくと上(かみ)から流れる辰巳用水の分流に合流しています。
(辰巳用水の分流と合流・手前の細い溝は大清水の余り水)
(大清水の全景)
(この辺りの湧き水は、犀川上流辺りの犀川河岸段丘中段の笠舞段丘や上段の小立野台地と、更に上流域からの浸透水が湧き出ているもので、この辺りに有った幾つかの湧き水は寛永9年(1632)の辰巳用水の完成で、新たな湧き水が出るようになり、それまでの湧き水は水量が増えたといわれています。また、金沢市史によると上水(お殿様の水)と言われた完成まもなくから、辰巳用水は農業用水として利用されています。)
(善光寺坂)
(上の写真は大清水周辺・下の写真は入口)
この辺りが宅地化する前、農地を潤すと共に地域の人々の生活用水や夏の子供の水遊びの場として幅広く利用されていますが、藩政期から大正初期には、家畜の飲み水、特産品の里芋など農産物の野菜洗いにも使われていたそうです。10年ほど前に訪れた時には、看板に小立野3丁目、三口新町、笠舞1丁目の地権者か使用者か?近辺の30数名の名前が書かれていました。今、看板はありませんが掃除が行届き、湧き水が大事に守られていることが窺えます。
(勘太郎橋)
「大清水」は勘太郎川の源流という説があり、また、勘太郎川が、何処から何処までかが曖昧になっています。今、勘太郎川といわれているのは、金沢市が指定する「保全指定用水」の3次指定(平成12年12月)によると、起点は石引2丁目「風月堂西側」から鱗町交差点までの1,4mとなっているので源とは言えませんが、流水の一つであることは確かです。前にも書きましたが、「大清水」の上(旧堀切川等)や下(旧笠舞用水等)から流れる辰巳用水の分流が小立野古府線下で合流し一本松で勘太郎川に繋がっています。
(「小立野校下の歴史」より)
(調べてみると「大清水」が勘太郎川の源流と言われるようになったのは、平成元年(1989)か5年(1993)に小立野公民館が発行した「いし曳き」3号か4号に掲載された地元の主婦の「勘太郎川と勘太郎橋」に“川を遡り探って見ることにしました。・・・・小さな流れは笠舞1丁目赤坂プラザ裏へ出て、善光寺坂登り口との間に地下水が湧き出ている。広さ十坪程の泉に到達しました。私はここが勘太郎川の源流点だと直感しました。”とあります。また、平成7年(1995)発行の「金沢用水散歩」の勘太郎川の項に”川の源は、パレット(元赤坂プラザ)裏にある「大清水」である“と書かれています。)
(パレット「元赤坂プラザ」)
(金沢用水散歩)
こんな言い伝えもあります。前田利家公が金沢に入城し、前田家は文禄4年(1595)上野村に先端防衛を兼ねて小立野馬場を設けます。小立野は台地で馬の飼料となる秣(まぐさ)はありますが水がなく、崖下にある「大清水」を使うことで解消しようとして善光寺坂を作ったと・・・。
参考文献:「さきうら」金沢市崎浦公民館 平成14年5月発行・「小立野校下の歴史」園崎善一著 平成13年4月発行・「小立野公民館創立50周年記念誌」小立野公民館 平成9年6月発行・「金沢用水散歩」笹倉信行著(株)十月社 平成7年(1995)4月発行 他