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藩政期、水車を仕掛けて“線香”を製す!!

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【小立野3丁目(亀坂下)】

線香場のことが「金沢古蹟志」に「がめ坂の傍(かたわ)らなる小路の奥なり、辰巳用水の餘水を以て水車を仕掛け、線香を製す。金澤に於いて水車を用ひて物を製する起源也と云ふ。近く絶えたり。」と書かれています。

 

(線香場跡)

 

この線香場は、記録によると文化2年(1805)より、丹波屋(初代太田某)が操業、ここで製造された線香は、浅野川川除町(今の並木町・材木町辺りか?)の販売所を通して売却されたとあり、翌文化3年に流行したチョンガレ節の文句の中に「京から職人男女が如月(二月)仏法繁盛の新製車を辰巳の御用水もけふを杉葉も仏の御慈悲」と唄われたと伝えています。

 

(チョンガレ節とは、チョボクレとも呼ばれる門付芸です。唄の頭に「チョンガレ・チョボクレ」と連続する部分があり、主に上方では「チョンガレ」と、江戸・東京では「チョボクレ」と唄われていたそうです。)

                 

はじめに辰巳用水を動力源とし小立野の段丘の崖を利用し水車を設備したのは、慶安4年(1651)波着寺横で藩直営の銃薬製造で、7年後、火災により焼失しました。後に土清水に移転しています。線香場の水車は、はじめは何に使われたかは定かではありませんが、波着寺横の水車と同じころに設けられたものではないかと伝えられています。

 

(天徳院前の辰巳用水)

(正面の小路は辰巳用水の分水でこれを下ると線香場跡)

 

藩政期から明治期は、線香製造、精米(酒つくり用)が主で、大正4年(1915)頃には6人の女性が働いていたそうです。水車小屋は水車が2基、大正末期まで主に杉線香を生産し、他に漁網製造用撚糸作成用・製油(菜種油しぼり)に用いられていたそうです。

 

 (大正期の線香場の地図・「さきうら」より)

 

線香場の一角には、線香場主太田氏の自宅があり、後ろの崖上に線香乾燥場(細工場)及び製造場で、乾燥場の横から滝の上の処まで立木が並び、それに線香の原料の杉の葉をかけて乾燥したそうです。

 

(水車の修理は、精米・製粉木製水車の上掛け水車の小修理は、線香場主太田次氏自身がおこなったそうですが、大修理は、野々市町の有名な車大工某氏に依頼したそうです。)

 

 (亀坂)

 

小立野には辰巳用水の本流から直接引水していたのは線香場のほか何軒あった分りませんが、記録では上野本村(町)に一軒あったそうです。直接引水は水利組合の許可を得て、毎年使用料を払ったそうです。他に水車を用いるところが何軒あったか定かではありませんが、使用料を払わなくていいスラレ水(余水)を利用していたそうです。

 

(余談ですが、金沢では里芋を儀礼食の料理献立に使う伝統があり、涌波・三口新・笠舞・上野本の各村(町)は里芋の特産地で、盆や正月、祭礼の時期には、里芋の出荷に備え洗浄作業で多忙だったといいます。農家の里芋洗いは、三口新・上野本・笠舞では辰巳用水本流や余水水路溝で上野村(町)は善光寺坂下の大清水で作業をしたそうですが、その他のところでは洗浄作業に水路溝で水車が用いられ、昭和の始め金属製の水車を設置し、里芋洗浄を行なう里芋仲買人が出てきたそうです。) 

 

(亀坂下の辰巳用水分水と亀坂地下道)

 

昭和6年頃には、太田氏は自宅を人に譲り、他に家を建てて移り、昭和9年(1934)頃、電力に切り替えていますが、何時、廃業したのかは定かでありません。

 

(明治41年(1908)に没した森田柿園の「金澤古蹟志」にある「・・・近く絶えたり。」は昭和95月の校訂時に委員の誰かが加筆したものと思われますが・・・?)

 

 

亀坂下を流れる辰巳用水分水)

 

参考文献:「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和95月発行

森田柿園(文政6年(1823)-明治41年(1908 は、幼名を鉄吉、のち平之佑、平次と称し、語は常孝・良見と順次改め、号を柿園と称した。

「さきうら」金沢市崎浦公民館 平成145月発行・「金沢の用水・こばし」金沢市教育委員会・平成123月発行


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