【笠舞2丁目(旧長谷川町)】
散歩の途中、名も知らない小立野下馬から亀坂に向かう右手の小路、好奇心で入り込んでいました。進んで行くと細い道の先に階段があり、下ると道が右に折れ片側に今は雑草の畑が広がり、その先にはキラキラの瓦と寺町台が見えます。初めてのところだったので、途中で引き返そうと思ったのですが、進み過ぎて戻るのに一寸急坂。直ぐ先に下の道が見え、目先の楽チンを選んでいました。
(下馬地蔵から亀坂(旧道)をのぞむ)
幸い、下の道は、町歩きのガイドで何度も訪れた「鼻かけ清水(しょうず)」のある旧長谷川町なのでホットしました。別名「旧長谷川町の清水(しょうず)」とも云い、ここは湧き水が今も豊で、笠舞地区では「大清水(おおしょうず)」と並んで現役です。と言うわけで今日は「鼻かけ清水(しょうず)」お話です。
(名も知らない坂)
「鼻かけ清水(しょうず)」別名「旧長谷川町の清水」については、藩政期の史料にも記載されています。藩政期中期の加賀藩士柴野美啓に「亀の尾の記」には「此清水は元文二年(1737)邑長より書き出される也、案ずるに元文二年の加州産物誌に石川郡上野新村に清水ありハナカケ清水と称す」とあります。
(鼻かけ清水)
“金沢古跡考”にも「元文二年村長より書き出せる鼻かけ清水(花かけ清水)は、赤坂無常場より辰巳往来にあり、三間四方で深さは脛を没するほどで、旱天時でもこの清水は涸れず、こんこんと涌き出ていたとある。この清水は、がめ坂より少々上がり、「鼻かけ」というのは、冬季これに口をつけば寒水強く、まさに鼻がかゆくよう覚ゆるので名つけられたもの。とあります。
(「金沢古跡考」の記述に沿って歩いてみると、旧長谷川町の「鼻かけ清水」とは少し場所が違うようです。「大清水」の事かも・・・?そういえば、「大清水」に“金沢古跡考”の「鼻かけ清水」の看板が出ています。「大清水」は後日別に紹介予定。)
現在「鼻かけ清水」は、小立野・古府線が小立野下馬から下ってくるところの南側の崖にあります。以前は、崖に竹を埋めて水を引いていたそうですが、昭和63年(1988)小立野・古府線が完成したとき、ここがコンクリートの擁壁となり、道路の下にパイプが埋められ水を引いているそうです。水量は豊富で付近の人は四季を通し洗濯、消雪、植裁への散水、夏は西瓜などを冷やすために使用されているそうです。
(小立野・古府線の坂上)
「長谷川町」は、昭和11年(1936)崎浦村が金沢市に合併したとき、命名された町名で、町名の由来は、合併の当時ここに13軒の民家があり、地主は猿丸神社の西隣にあった東洋ゴムという会社の長谷川仁三郎氏の所有地で「長谷川町」になったそうです。昭和38年(1964)には住居表示変更で笠舞2丁目になりました。因みに明治22年以後は崎浦村大字山崎地方といい、地籍はあるが民家はなかったそうです。
(東洋ゴムの長谷川仁二郎氏の子息は有名な彫刻家長谷川八十氏で、東洋ゴムの社長を継ぎます。会社は大正11年(1922)に創業し昭和25年(1950)まで存続したそうです。長谷川八十氏は、昭和22年(1947)金沢美術工芸専門学校の創設に参加、引き続き教鞭にとり、後に金沢美大名誉教授にあります。)
(長谷川町排水路)
現在、長谷川町の名は、天徳院から亀坂を下る辰巳用水の分流、かっての「笠舞用水」の名称は「長谷川町排水路」と名を変えて「長谷川町」町名を今に伝えています。
参考文献:「さきうら」金沢市崎浦公民館・平成14年5月発行・「金沢の用水・こばし」金沢市教育委員会・平成12年3月発行