【出羽町】
本多政重の帰参について加賀藩は拒否するどころか、徳川家との今後の関係悪化を懸念し幕府の意向の従うしかないと思っていたらしく、慶長16年(1611)8月12日、藤堂高虎の斡旋から3ヶ月後に政重に利常公は5万石という破格の家禄を約束します。さすがに政重はその内2万石は辞退し、旧禄の3万石で登用されます。
(本多家上屋敷跡)
当時、前田家では、徳川ににらまれるような、豊臣縁故の侍が多く召し抱えていたので、家中に何か騒動でも起これば、ひとたまりもなく潰されてしまう恐れから、幕府の意思を背負った政重に、家臣団統制を委託しようと利常公は政重に、「しまりの儀、まかせ入申候」とその任務を執拗に要請します。
ところが政重は、利常公の意図に従わず、なかなか家臣団統制の任務を引き受けようとはせず、新参者で若輩の身“御年寄衆なみの御奉公はいよいよ御免”にしてほしいと利常公の要請を蹴飛ばしますが、幕府との仲介については進んでやろうと約束します。
(本多蔵品館パンフより)
慶長18年(1613)前田家に幕府が突如利長公の隠居領である越中国新川郡を召し上げると言い出し、政重は前田家の意を察し、江戸や駿府に事態の収拾につとめ奔走、その間、政重の人脈を活かし江戸や駿府へ7度も出向き、前田家は、事なきを得たと伝えられています。この功績により2万石を加増され、政重は、前田家に不動の地位をきづきます。
(本多家の言い伝えによると、この功績により本多家に、さらに5万石から10万石への加増の話がありましたが、政重が辞退したため、代わりに「村雨の壺(ルソンの壷)」を拝領したという。この壺は別名「五万石の壺」とも呼ばれ、本多家ではとりわけ大切にされ、現在、「加賀本多博物館」で展示されています。)
≪参考ブログ≫
加賀本多家の歴史・名品-加賀本多博物館
慶長19年(1614)大坂の陣を前に、前田家からの使者として、江戸や駿府へおもむいた政重が、家康や秀忠、そして、父や兄と何度も会談をし、前田家に対する徳川の信頼を勝ち取っています。
(加賀本多博物館入口)
政重は、大坂の冬陣では前田家の先鋒として従軍しますが、真田幸村(信繁)に真田丸に誘い込まれた末に敗れ、幸村(信繁)は後世に名を残します。この敗戦の後に兄本多正純の命を受け、真田信尹(徳川家康旗本・幸村の叔父)と連携して幸村を水面下で調略に当たったと言いわれていますから、なかなか、侮れない人だったようです。
(政重が、真田幸村に提示した条件は「信濃一国」と言う破格のものであったと言われています。)
慶長20年(1615)閏6月3日、従五位下安房守に叙任され、翌元和元年( 1616) 家康死去、父本多正信も死去します。元和5年 (1619)には、 二男政久を人質として江戸に差し出します。
(本多家上屋敷跡・現石川県立歴史博物館)
元和8年(1622)には、宇都宮15万5千石の兄正純は「日光釣天井事件」で失脚では、一歩間違えれば悲運の底に転落のところ、幕府から一ヶ月後「いまで同様、前田家のもとで奉公にはげめ」と書状が届きます。兄の罪は問わないというもので、当時、罪は一類に及ぶという連座、縁座を免れ、政重は大きな七光りを失う事となりますが、これ以降は、幕府に対する交渉の術もなくなってしまった事になりますが、この頃には、政重は、もう、どっぷり前田家の人となり、政重本人の人格によって受けた篤い信頼は、もはや、父や兄の七光りを使う必要もなかったものと思われます。
(かって仕えた主君は、大谷吉継は関ヶ原で果て、宇喜多秀家は流罪、福島正則は改易となり、養子先の直江家は断絶。さらに、権勢を誇った本多の総領家さえ断絶する中で政重の家系は、前田家の八家として末永く存続します。)
正保4年(1647)3月にようやく致仕し、4男政長に相続。その3ヵ月後、6月3日政重は病を得、しずかに生涯を閉じます。法号「大夢道中」享年68歳。死因は主君前田利長公と同じ悪性腫瘍であったと言われています。
(本多政重の項おわり)
参考文献:「嵐のあしおと―近世加越能の群像―」田中喜男編(大野充彦著)株式会社静山社 1982年12月発行 「高岡法科大学紀要第20号 本多政重家臣団の基礎的考察―その家臣団構成について」本多俊彦ほか