【金沢・兼六園】
兼六園の天満宮は、加賀藩11代藩主前田治脩公が寛政6年(1794)、兼六園の今の梅林に地に創建した藩校明倫堂の鎮守として、田井天神から正遷宮されといわれていますが、鎮守造営時の棟札には「金城霊澤御勧請天満宮鎮守御造営御棟札」と有り、この棟札によると、金城霊澤の鎮護のため、治脩公の命で天満宮のほか、稲荷神、命婦神の社も造営されたのだという話があります。
(天満宮は、学校の鎮守と限定せず、金沢の地名の起源といわれる金城霊澤の鎮護と金沢、あるいは加賀藩そのものの鎮守という意味も含めて勧請されたのでしょう。)
どうも、聖堂(孔子廟)を設ける予定であったのを、代わりに天満宮を設けたというのは、金城霊澤の名目で勧請されたとはいえ、菅原道真公は学問の神として崇められていることから学校の鎮守であると同時に、前田家は道真公の後裔と称していることから先祖神を祀り、藩の安泰を祈ったということなのでしょうか。
(石川県立美術館前の一の鳥居)
文政期、12代藩主前田斉広公により、今の兼六園のところに4000坪の広大な隠居所「竹沢御殿」が造営され、学校は今の中央公園のところに移築され、その地にも新たに天満宮が設けられ、社号も学校続鎮守とし稲荷神、命婦神の社も遷宮します。
兼六園内の天満宮は、そのまま隠居所の鎮守となります。それにより藩が直接祀る天満宮は、学校と竹沢御殿の両御鎮守と称し同様の祭祀が執行されたといいます。兼六園の天満宮は、慶応3年(1867)9月、卯辰山天満宮(卯辰神社)に正遷宮され、建物だけが残りますが、明治5年(1872)に村社竹沢天神社に、明治7年(1874)に社号を金沢神社と改め郷社に昇格します。
(学校続鎮守本社の天満宮の祭神や稲荷神、命婦神の社は、後に椿原神社(椿原天満宮)に移安されたといいます。)
藩政期の記録には、神事に家中ならびに町方の婦女子と15歳以下の男子の参詣を許すというお触れがだされたといいますが、一般の人が自由に参拝出来るようになったのは、社号を金沢神社と改めた明治7年(1874)5月、兼六園の一般開放からだそうです。
現在金沢神社は藩政期、藩校明倫堂の鎮守であったという経緯もあり、学問の神である菅原道真公を祀った金沢市内の神社の中でも市街地に近く、毎年受験シーズンには、数多くの受験生が参拝に集まることで有名です。
(白阿紫稲荷大明神)
また、災難除けの神である白蛇竜神、交通安全の神である琴平大神、商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神も合わせて祀られています。
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著 発行桂書房2006・12月/ 「金沢城下町」藤島秀隆・根岸茂夫監修 発行北國新聞社平成16年6月