【日本・ドイツ・満州・韓国・台湾】
明石元二郎は陸軍大学校卒業の翌明治23年(1891)参謀本部配属となり、「日本のインテリジェンスの父」とされる川上操六に出会い、「諜報の術」を叩き込まれます。それまでの明石は、明治16年(1883)陸軍士官学校卒業、任歩兵少尉、歩兵第12聯隊第1大隊附、補歩兵第18聯隊第3大隊小隊長等を経て、明治19年(1887)東京の陸軍戸山学校の教官に就任しますが、明治20年(1888)に陸軍大学校(5期生)に入学、同年、任陸軍歩兵中尉、明治21年(1899)、青森歩兵第5連隊を経由して明治22年(1890)に陸軍参謀本部に出仕し、明治24年(1892)に陸軍歩兵大尉に任官します。
(参謀本部:明治4年(1871)7月、 兵部省に陸軍参謀局が設けられ、幾多の変遷を経て明治11年(1878)12月 参謀局を参謀本部と改称し、陸軍省から独立し、軍政と軍令が分離し長は参謀本部長にします。明治21年(1888)5月、帝国全軍の参謀長として参軍(皇族:有栖川熾仁)を置き、陸軍参謀本部(長は参謀本部長)と海軍参謀本部(長は参謀本部長)とを置く、なお、海軍では海軍大臣に属する海軍参謀部が置かれたが、軍令は参謀本部が統括した。当時、日本のおける最高のシンクタンクで、巨費を投じて和洋の文献を収集、蔵書は2万5千冊、当時外務省や東大図書館以上で知識の宝庫でした。外務省も最新の海外情報を求めて参謀本部資料課を頼りにしています。後の時代には、参謀本部は統帥権という錦の御旗を振りかざし政府の干渉を排して陸軍を暴走させる装置になります。)
(世界史を変えた明治の奇跡 前坂俊之著)
当時、参謀本部次長川上操六は、明治18年(1885)に陸軍少将参謀本部次長、明治19年(1886)に近衛歩兵第2旅団長を務めた後、明治20年(1887)にはヨーロッパに渡りドイツで兵学を学び、明治21年(1888)帰国し明治22年(1889)より参謀次長。明治23年(1890)、陸軍中将に進級。その後、明石元二郎も川上操六の下で、ドイツに留学し、明治27年(1895)には日清戦争に従軍します。明石の川上の出会いは、その後の明石元二郎のユニークな性格や知性、知能、理解力を生かしインテリジェンス(知性・智慧・智謀・スパイ・諜報・謀略・情報収集)の道へと導き、日露戦争の勝利に繋がる運命の人であったと云っても過言はありません。
(余談:日清戦争の下関条約締結後、明石元二郎は、北白川宮能久親王率いる近衛師団の参謀大尉として台湾に渡り、師団が5月29日に台湾北部の澳底(おうてい)に上陸した際には、揚陸地偵察のため、明石は最初に台湾の地を踏んだ日本軍人でした。)
≪影響を受けた人物③川上操六≫
(嘉永元年11月11日(1848年12月6日)~明治32年(1899)5月11日)は、日本の陸軍軍人、華族。官位は参謀総長・陸軍大将。栄典は従二位・勲一等・功二級・子爵。幼名宗之丞。桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」と云われています。川上操六の父は鹿児島藩士。戊辰戦争に従軍し明治4年(1871)陸軍に出仕します。西南戦争では、熊本城籠城で功を立て、明治17年(1884)大山巌に随行し欧州各国の兵制を視察。帰国後の明治18年(1885)参謀本部次長。明治20年(1887)再び欧州に留学し、ドイツで兵学(皇帝の兵学)を学ぶ。帰国後参謀次長。日清戦争では大本営陸軍上席参謀として作戦を指導した。明治31年(1898)参謀総長に就任。同年陸軍大将。陸軍をドイツ式の兵制改革を行い、近代的な戦略の導入に貢献します。
(当時、玄洋社の頭山満は「歴代の参謀総長は、誰も彼も元老の圧力を受け、思う存分仕事が出来なかったが、川上だけは格段だった、川上は近代の軍人中の偉い男じゃ」と云っています。)
(川上操六)
後に国家意識の違いから袂を分かつ同郷薩摩藩の先輩西郷隆盛は、川上操六の才能を愛したと云われていますが、川上操六は出身に関係なく優秀な人材を登用した人で、薩摩藩出身者として藩閥の中心人物と成りうる人物でしたが、本人は派閥意識を持たず、出身藩にこだわらず幅広く人材を登用し、教育方面でも、成城学校校長を務めるなど、優秀な軍人育成に貢献しています。
(川上操六は、情報の収集・分析はあくまでも個人であり、その情報感度とコミュニュケーション能力によって優劣が決まるもので、才能、スピード、行動力のある人物ならば派閥に関係なく抜擢して、適材適所に配置し、存分に活躍させます。その内に参謀本部は、優れた人物が集まるところになっていました。)
(明石元二郎)
明治28年(1895)には、日清戦争を勝利に導き、インテリジェンスの重要性を示しまし、明石元二郎は川上操六の海外の視察へも同行しており、その教えを受ける最高の環境にいます。川上操六は対ロシア戦の作戦を練っている最中、明治32年(1899)に急逝し、川上を無くして日露戦争ができるのかと不安視する人もいた中で、参謀本部で川上の元にいた「今信玄」とも呼ばれた智将・田村怡与造、そして福島安正や明石元二郎たちが表舞台に立ち、ロシアとの戦争に立ち向かって行きます。
(川上操六は、陸軍の軍令を司り、作戦の立案計画なども行った参謀本部には、トイツ留学後の明治23年(1890)に参謀本部に出仕した宇垣一成や上原勇作、田中義一、福島安正など才能溢れた軍人たちを取りまとめていました。明石元二郎は川上を兄のように慕い、川上もまた元二郎のユニークな性格や才能を愛し、教えを授けたと伝えられています。)
(山県有朋)
川上は明治26年(1893)から清国に出張の後、同年10月に参謀本部次長に就任し、設置された広島の大本営で陸軍上席参謀兼兵站総監につき、翌年の日清戦争開戦に大きく関わり、特に、命令に従わない先輩、第一軍の総司令官山県有朋が、清軍に積極攻勢をかけた際には、「おやじ老いたり」と、参謀総長有栖川熾仁に進言し山県軍司令官の即時解任を提案、勅命により、山県を11月帰国させることになります。明治28年(1895)3月には征清総督府参謀長に任命され、日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏し、その功により8月に勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられました。
(台湾・仏印・シベリア出張を経て、明治31年(1898)1月に参謀総長に就任。同年9月、陸軍大将に任命されるが、翌明治32年(1899)年5月に薨去。享年52。薨去に伴い従二位に叙され勲一等旭日桐花大綬章を賜ります。墓所は東京都港区青山霊園。)
(陸軍参謀川上操六 大澤博明著)
川上操六とは、一体どんな人物なのか!?
川上を評して、当時の東京日日新聞の主筆朝比奈知泉は「誠実、実直、純朴、赤心を持って人の節する美徳と、怒らず、激せず、その頭脳は冷やして、その胸を温くする態度は武人の統率者としては理想的であった。」と云っています。
(参謀本部)
明治の軍人は、藩閥意識から脱却できず、島国根性、縄張り意識が抜けなかった時代に川上操六は国家意識なくして日本防衛は不可能であるという信念があり、そのため、川上が最初に取り組んだのは、藩閥、派閥を超えて優秀な人材を参謀本部に集めることで、当時の陸軍にあって元老山県有朋とは正反対のタイプで藩閥。派閥などは一切眼中になかったという。
(元老山県有朋は「日本陸軍の父」と呼ばれていますが、本当は藩閥、派閥政治の元凶であったと云うもので、その説によれば、山県は長州閥のイエスマンばかり集めてお山の大将になり、その子分どもが昭和軍閥で暴走し、日本を潰したのだから「日本の失敗」の張本人だというもので、その説では「生前、政治家としての山県は伊藤の向こうを張ったが、軍人としては半分の価値もなく、日清戦争の際、山県は第一軍司令官でしたが、大失敗を演じ(前出「おやじ老いたり」)中途で病に托して帰国させられています。また、最も執拗頑迷な長州閥の維持者で、日本の発展を妨げた有害無用の長物ではないか!!」と、明治軍事史の名著「薩の海軍・長の陸軍」の鵜崎鷺城氏が、“山県無能説”をお書きになっています。)
≪川上操六の人となり≫
1,堅固な意思 日本のインテリジェンスの先駆けとして誇りを持っていて、当時も西欧では諜報が蔑視されがちですが、川上は、忍者、御庭番を諜報、情報役として重視した日本古来の武士道と認識し、部下は、命も名も金もいらぬ、国家を守り、川上のためなら単身敵地の乗り込んでいったという。また、意思、意志ともに堅固で一度目標を定めると必ずそれを達成したという。 2,部下の秀でた部分を見出す。 世の中には完全な人物は少ないが、人間には必ず一技一芸があり無用な人材などないと云う信念から容易に人は捨てるべきではないというのが持論。川上は、すべての人に誠心誠意接し、部下には長所を見つけその才能を発揮させようと勉めています。 3,部下を信頼する力 人は信頼すれば、卑劣な行動をしないもと云う信念から、試験には監視を付け無かったという逸話があります。これはけっしてテクニックではなく、川上の自然な性格から出たものと云われています。 4,ほめ上手、聞き上手 部下の報告にたいして「これで結構、よく出来た。」と云ったという。「こうせい」「ああせよ」「このように修正してはどうか」とは決して言わず、「ほめて使う」のは祖母の教えで、怒ると以後、誰も味方になってくれない!!と云うもので、祖母の教えを生涯守ったという。 5,命令は直接伝える 部下や将校に対して十二分に教育的な配慮を加えた訓示を与え、命令を伝える場合は、自室に招いて、直接命令を伝えたという。川上の言葉は常識、慣例に固執せず教訓的だったという。
(大山巌)
6,礼を重んじ、先輩を立てる 「人は頭を下げることは好まぬようだが、頭を下げても、その願いが達成できれば良い」と云う考えから、上司の山県、大山両公(元老)に対しては、なおさら頭を下げて指導をお願いしたそうです。そのテクニックは、両公の副官や近辺にいる人達を思いのままに使うもので、自分の意見や要領を密かにこの人達に両公の耳に入るように伝え、この後の山県や大山へ親しく訪れに教えを乞い、いろいろ話を承り、部下を通して伝えてあるはずの意見に触れたときに「なるほど閣下の仰せの通り、そのように取り計ります。とんとその考えが出ませんでした。お陰様で助かりました。」と、何ともペテンのような話ですが、こうして両公(元老)をおだてておくのも一つの方便だと云っていたそうですが、頭を大きく下げるのを忘れていなかったという。 7,即断即決する力 何事にも、言動はメリハリがはっきりしていて、行動もスピーディー、態度も悠然としていて話も上手かったという。しかも、面談や決済もスピーディーで、事にもよりますが、用件には初めから結論だけ聞いてイエスかノーか、即座に返事をしたという。また、受取り方も早いが、決定も早くスピーディーな裁決だったと伝えられています。 |
(鹿児島桜島)
P.S
川上操六は、薩摩国の吉野村中ノ町方限の士族伝左衛門の子として生まれます。平素は農業を営んでいて、川上の祖母は常に4・5人、多いときには30人前後の百姓を使い農事を世話していました。明るい性格で小言を云ったり、大声で叱ることは一度も無かったという。いつも笑顔で子供達にも親切、丁寧に言いつけて絶えず「よく出来た」「丹精であった」とほめていました。そして孫の操六に「ほめられて悪く思うものはいない。何事もほめておくのが一番良い。小言を言われたときは、そんなことはないと口にはださないものの、みな内心は怒っている。そのことをよく飲み込んで人は使わねばならぬ。」と諭したという。操六はこの祖母の言葉を胸に刻み込み「このことを人の先に立って指図する人に第一の心得であると教えられた。ワシは軍人となってからも、この祖母の教えを考えながら今日に及んだ。」とよく語っていたという。操六が軍人になって以来、トップリーダーとして部下を見事に統率出来た要因は天性の素質と同時に、この祖母の教えが大きかつたと思われます。
参考文献:「株式会社海竜社 2017年8月発行 「陸軍参謀川上操六」大澤博明著 株式会社吉川弘文館 2019年2月発行 「明石元二郎大佐」前坂俊之著 株式会社新人物往来社 2011年1月27日発行 明石元二郎 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)など