【日本・満州・韓国・台湾】」
明石元二郎は、人との出会いは恵まれていました。前回でも紹介したように團尚静、琢磨親子、安井息軒、その後、陸軍士官学校や陸軍大学校、陸軍で出会った人々、特に児玉源太郎や川上操六は上司と部下という関係性を超えて、お互いの人間性に全幅の信頼を置いていたように思われます。また、国内に止まらず明石工作の協力者であったフィンランドのシリヤスクも、利害関係を超えた深い友情で結ばれていたらしいエピソードも残っています。
(明石元二郎は、諜報員として優秀だったと云われています。しかしそれ以上に、人間的魅力に溢れた人であり、とてもウエットな感情の持ち主でもあったものと推測されています。多分、それは振り幅の大きさに周囲の人が魅了され、腹を割って話したくなる相手に見えたのでしょう。)
(桂太郎総理大臣)
今回は、日露戦争の参謀次長児玉源太郎との出会いと、共通点に焦点を当て進めていきます。先ずは出会いですが、元二郎が明治20年(1887)には陸軍大学校第5期生となり、桂太郎の後押しで陸軍大学校の校長児玉源太郎からは軍政学や編成学を学んだことに始まります。児玉は、以後伊藤博文内閣の陸軍の軍制改革に当り、明治31年(1898)には第2代台湾総督や、明治33年(1900)の第4次伊藤内閣では陸軍大臣、明治34年(1901)第1次桂内閣が発足し、明治36年(1903)内務大臣、陸軍大臣を兼務します。
(後に詳しく書きますが第4代台湾総督は児玉源太郎、第7代台湾総督は明石二郎が就任して居ることから何らかの縁を感じさせます。)
(その他、名前を上れば、ドイツから招聘したメッケル少佐は元二郎に戦術論を教え、前回にも紹介した、イタズラ好きの青年として睨まれています。余談ですが、児玉校長も自ら熱心に聴講し、メッケルから「招来、陸軍の児玉か、児玉の陸軍かと呼ばれることになろう」と予言しています。)
≪影響を受けた人物②児玉源太郎≫
児玉(兒玉)源太郎は、嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日)ペリー来航の前年、長州藩の支藩・徳山藩の中級武士の家に生まれます。父半九郎(家格は馬廻、禄高は100石)が重役に睨まれて牢死したため、姉夫婦に育てられます。しかし、その義兄(児玉次郎彦)も藩内の対立で、自邸で斬殺されます。幼い源太郎は自ら義兄の遺体を片付けたと云はれています。その後
17歳の源太郎は藩の「献功隊」の小隊長に任じられ、箱館五稜郭の戦いに参加し、夜襲を冷静な判断で撃退する活躍を見せました。明石元二郎も児玉源太郎も年若くした父を失っています。
(源太郎の父半九郎は、早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856)10月19日に憂悶の内に死去。享年46歳。嫡男の源太郎はまだ5歳と幼く、半九郎の喪が明けた後に養子の次郎彦が半九郎の長女久子と婚姻しその家督を継ぎます。児玉次郎彦は児玉半九郎の養子となります。しかし、元治元年(1864)8月12日の早朝、自宅を訪ねてきた親類の塩川某に玄関先で背後から斬られた上、数人の刺客によって一斉に斬りつけられ、そのまま玄関先で絶命。享年23歳。ほどなくして保守派による児玉家への処分は、一人半扶持に格下げされ、更に同年12月には邸宅も没収され、家名断絶となります。他に6家が同じく処分され、それを徳山七士の家といいます。その後、長州藩において高杉晋作らによって保守派が失脚すると、徳山藩主毛利元蕃は徳山七士の家を復興してその遺族を厚遇します。慶応元年(1865)6月29日には藩主毛利元蕃から次郎彦に対する赦免状が交付され、児玉家の親類一同は7月3日に源太郎の家督相続を願い出て許可され、源太郎は中小姓に取り立てられて25石の禄を与えられ、これにより児玉家の家名は再興され、その3ヶ月後には元々の馬廻役に任じられ、禄も100石へ戻されています。)
(山田顕義)
最初に、児玉源太郎に注目したのが新政府軍の指揮官山田顕義でした。山田顕義は松下村塾出身で、大村益次郎にも師事した戦術の天才で、源太郎は、山田の後押しで兵学寮(下士官養成所)に入り、源太郎の軍人への道が始まります。やがて源太郎は陸軍少佐となり、佐賀の乱や神風連の乱の鎮圧に活躍、西南戦争では熊本城を守り抜き、軍旗を奪われて切腹しようとする乃木希典少佐を止めたのもこの時のことでした。
(山田 顕義:天保15年旧暦10月9日(西暦換算:1844年11月18日)~ 明治25年(1892)11月11日)は、日本の幕末の長州藩士で、明治時代の政治家、陸軍軍人。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等伯爵。日本大学の学祖とされる。吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとり、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言があり「小ナポレオン」と称されるほどの用兵家で、岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭し、約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂します。)
児玉源太郎とは、一体どんな人物なのか?
戊辰戦争、西南戦争で活躍し、参謀本部、陸軍大学校で兵制の近代改革を推進、陸軍の基礎を築いた人物とされ、明治27年(1894)の日清戦争では、源太郎は後方支援に回り、戦地から帰還する将兵の検疫・消毒にあたります。この時、源太郎とコンビを組んだのが後藤新平で、23万人以上を検疫、15万人以上を消毒する大事業に成功し、諸外国を瞠目させます。
(児玉源太郎)
(日清戦争による犠牲者は、戦死1,417名、病死11,894名で、特にコレラの感染者が多かったと云われています。様々な感染症に罹患している可能性がある兵士ら24万人が687隻の船舶で凱旋帰国するという緊急事態に対処、危機管理の指揮官になったのが陸軍次官の児玉源太郎で、そこで見いだしたのが後藤新平で、彼はロベルト・コッホ研究所に留学経験があり、内務省衛生局長を務めた経験がある後藤新平に、帰還兵に対する検疫の全てを任せています。後藤は細菌学者として名を成していた北里柴三郎の助力を得て凱旋兵の大検疫事業を始め、後に世界が称賛する検疫事業を成し遂げることになります。)
(余談:今、世界を席巻している新型コロナウィルスは、「日本国憲法」では、国家緊急事態に対する憲法規定が無いそうで、このような国家は類例が無いそうです。「改正新型インフルエンザ対策特別措置法」に基づく「緊急事態宣言」が一時発せられますが、「自粛要請」や「指示」に留まり、私権の制限や罰則は伴わない日本独自の対処法だそうです。)
児玉は、明治29年(1896)陸軍中将、そして3年後の明治31年(1898)第4代台湾総督就任。後藤新平は民政長官として児玉を支えます。台湾での源太郎の方針は「同じアジア人として台湾近代化に尽くす」というもので、インフラを整備し、台湾経済は劇的に変化します。台湾が今も親日国なのは、源太郎や後藤ら台湾近代化のために力を貸した日本人たちの存在があるからなので、それを引き継いだのが第7代台湾総督明石元二郎と云うことになります。
(実は、日本が日清戦争の結果、清国から台湾を獲得し、台湾総督府を台北に置いて、総督は陸・海軍大将または中将に限られていました。初代の樺山資紀、桂太郎、乃木希典に続き、第4代目の台湾総督が児玉源太郎でした。児玉が台湾総督に就任すると、弱冠42歳の後藤新平(後の東京市長)を台湾総督府の民政長官に抜擢され、そして児玉はまず台湾の行政機構の大改革を実施します。6県、65署の役所を台北、台中、台南の3県、44署に統合簡素化すると同時に県知事、署長以下の人員整理を断行し、勅任官以下1,080人の官吏を罷免します。)
明治31年(1898)当時は、日本の台湾統治は、まだ3年目であり、あちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展も立ち遅れていました。それで、約17万人いたといわれるアヘン中毒患者の撲滅に積極的に取り組みます。経済政策では、殖産局長に農業経済学および植民地経済学者の新渡戸稲造を迎え、さとうきび栽培などの生産を飛躍的に増大させ、児玉は台湾総督としての8年間(明治39年4月まで)の間に西部縦貫鉄道、基隆港築港、通貨・度量衡整備、統計制度確立、台北医学校設立、予防注射強制、下水道整備、衛生状態改善、土地所有の権利確定などの諸政策を断行したが、これらの事業経費は約6,000万円に上ります。明治31(1898)年当時の日本の国家予算が約2億2,000万円だったことを考えれば、いかに膨大な資金を台湾統治のために投入したかがわかります。日本の統治政策は、ヨーロッパ諸国の植民地政策とはまるで正反対の搾取ではなく投資だったことがよくわかります。台湾が今も親日国なのは、源太郎や後藤、そして明石など、台湾近代化のために力を貸した日本人たちの存在があるからなのです。
ところが、ロシアが満洲を不法占拠し、さらに朝鮮半島を窺う形勢となり、にわかに日露間が緊張し始めます。そんな最中、陸軍参謀次長の田村怡与造が急死。対露作戦の立案役を失った陸軍が、明治36年(1902)陸軍参謀本部次長を児玉源太郎がその後釜を快諾します。台湾総督に内務大臣まで兼務して、次期首相と目されていた児玉源太郎にすれば、数段の降格でしたが、「国家のためであれば、自分の身は二の次である」と言って引き受けたのです。それも児玉源太郎自ら次長に就任するという事自体が、児玉の人柄というものがわかります。そして、明治37年(1903)に日露戦争勃発します。
(日露戦争における諜報活動を抜きに語れませんが、参謀次長児玉源太郎は、今では、元二郎にロシア軍の情報収集をさせた結果、ロシアを揺さぶることで戦争継続を断念させることができるという方向にシナリオを書いたと考えられていますが、児玉は、元二郎には自由のきく地位も金銭も与え、ロシア反体制派に資金援助をするといった判断権限も与えることで、ロシア政府や王室内部からの崩壊を招くことを期待し、元二郎はその期待に見事に応え、ヨーロッパ各地で反乱や騒乱を勃発させます。後に明石の功績は1人で20万人分の戦果を挙げたとさえ言われました。)
実際、日露戦争終結後、児玉は南満洲の経営をどうするか、検討を重ねます。「これからの日本の安全と発展に不可欠」と考えていたからで、日露戦争に勝利したとはいえ、依然、ロシアは隙あらば南下しようと満洲を窺うようになり、それを許してしまったら、何のための日露戦争であったかわからなくなります。
そこで児玉は、南満洲の経営を「文装的武備(文化・教育・衛生に裏打ちされた武備)」を軸とする国策会社に委ね、日本人入植者が正業に励みながら、その治安が守られるようにすることを考えます。それが南満洲鉄道株式会社できました。そして、その満鉄のトップに、児玉は見識と実力において最も信頼する後藤新平を推薦します。
児玉源太郎の言葉!!
「戦争を始める者は、戦争を終わらせることを考えておかねばならぬ」
「戦場として荒らした地は、終戦の後は以前にもまして住みやすい環境に直す責任がある」
児玉は、結局この日露戦争の心労が元で、明治39年(1905)に亡くなります。日露戦争の真の英雄は、陸軍は言うに及ばず日本にとっても世界においても児玉源太郎で、偉大な人物でした。
つづく
参考文献:「明石元二郎大佐」前坂俊之著 株式会社新人物往来社 2011年1月27日発行 明石元二郎 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)など