伝説・伝承
【日本・ドイツ】
今回は、明石元二郎のルーツと生い立ちを少し掘り下げてみます。前回に書いたものと重複をしますが、まとめることにより、深く元二郎の人と成りを知ることが出来るでは思い敢えて書くことにしました。元二郎の生まれたのは福岡藩黒田家47万石の城下で重臣の次男坊でした。父は福岡藩士明石助九郎貞儀と云い1300石取りの大身でしたが、慶応2年(1866)28歳のときに切腹しています。その理由は分からりませんが、後に元二郎が上京に際し、同じ元黒田家の勘定奉行を務めた團尚静(実業家・団琢磨の養父)の屋敷に寄宿したことからも、幕末の大藩ならではの名誉有る切腹だったものと思われます。
(ご先祖は、赤松氏の末裔、備前保木城主明石行雄の子で、後に宇喜多秀家に仕えた戦国時代のキリシタン武将明石全登(たけのり・掃部)の末裔だと云はれています。その明石全登の祖父が近衛家に歌道を指南した戦国武将(赤松氏の家臣)で風流人だった明石正風の次男がご先祖様だと云われていて正風の長女は黒田官兵衛の生母と云われています。その子孫は代々黒田家の寵臣だったと伝えられています。関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏が敗北した明石全登を、同じキリシタンであり母方の親戚でもある黒田官兵衛の異母弟黒田直之の元で庇護したとされています。)
(明石元二郎と・・・)
明石元二郎については、実に型破りの人物で、服装や容姿には生涯無頓着で、不衛生で歯を磨くという習慣がなく晩年まで続いたとそうです。服装については陸軍士官学校時代、制服のズボンが緩く、へそを出しながらズボンの裾を引きずって歩いていたらしい、若い頃、洋行帰りの團琢磨に洋服の着方を教わったにも関わらず頓着なく、後に軍服を着た鏡に写る自分姿を見て驚いたという逸話が残るくらいですが、それでいて聖人タイプではなく失敗をとっさにごまかす風もあり悪戯者ですが、容貌が何となく人なつっこく、実に面白い人物だったそうで、逸話は枚挙にいとまがないと云われています。いくつか例を挙げると・・・。
(福岡城)
子供の頃の元二郎は、鼻水たれのヨダレたれで、アダ名を「ハナたれ」とよばれていましたが、頭がよく成績優秀で、大名小学校に県令が視察に来たとき、元二郎が選ばれ、「精神」と字を書くことになりますが、勢いまあって「神」の字が紙をはみ出してしまったが、余り堂々としていたのか?何故か褒められたといいます。また、人並み外れた腕白少年で、周囲の者もその対応には困惑したようで、7歳の頃には懲罰として藁のむしろ袋に入れられ、そのまま土蔵に放り込まれたが、泣きも叫びもせずに平然としていたという。
(陸軍幼年学校)
陸軍幼年学校時代には、夜中にボートに乗って転覆させたりなど悪戯を繰り返していたが、教師や先輩、友人などから嫌われたり憎まれたりすることはなく、陸軍士官学校時代も、周りの同僚や先輩などから好かれており、何かにつけ明石のもとに集り、噂の対象になっていたという。
(陸軍士官学校)
(メッケル)
士官学校から陸軍大学校時代の元二郎はイタズラ好き高じ、悪戯大将となって暴れまわっていたようです。あまりの悪戯者で、軍がドイツ式兵制を学ぶためドイツから招いた陸軍参謀少佐メッケルからもにらまれています。教官不在中を見計らって教官室前にある椎の木に登って実を盗んでいたところ、教官が戻ってきて、数時間木の上から下りられなくなったり、ドアノブに靴墨を塗ったり、ドアの上に砂入りの箱を置き戸が開くと砂を被るように仕組んだり、はたまた、フランス人教官はエスカルゴが大好物なのを知り、元二郎はカタツムリの代わりにカエルを紙に包んで机の上に置き、何も知らない教官は喜んで「ありがとう」と言ってポケットにしまいこむと、授業中に紙包みから抜け出したカエルがポケットから飛び出し、驚くと共に怒り出したという。そんな、たわいもないもない悪戯を仕組んでいたそうです。
(陸軍大学校)
しかし、集中力と記憶力は抜群で、特に数学や語学で、陸軍大学校時代は、戦術と数学で優秀な成績を修めます。数学は弾道計算のために重視されていたが、元二郎は歩兵科であるにも関わらず、砲兵科の学生よりも成績が良かったという。また、語学にも際立った才能を発揮し、幼年学校ではフランス兵制を学んでいたので、フランス語が得意でしたが、英語はもちろん、ドイツ語やロシア語も達者だったそうです。そして製図が得意で、勉強の仕方がまた彼一流の独得のやり方で、朝から晩までそれこそ寝食さえ忘れて、1日中1室にとじこもり、集中学習で、製図の授業の際、元二郎は鼻水を垂らしながらもそれを手で拭い、なおかつその手でまた製図をいじっていたので、製図が真っ黒になってしまったと云います。
(後に、製図について、外国人のパーティに出席した際、名刺を忘れた八代六郎の為にその場で器用に紙を裂き、まるで印刷してあったかのように文字を入れ、10枚ばかり即席の名刺を作成した。という逸話が残っています。)
また、元二郎は何かに熱中すると、ほかにことは完全に忘れてしまう性格で、上原勇作の手引きで山縣有朋と対談した時、どんどん話にのめりこんでゆき、しまいには小便を垂れ流していることに気がつかずそのまま熱弁を振るうに至ってしまった。山縣もその熱意にほだされ、小便を気にしながら対談を続けざるを得なかったという。
(山縣有朋)
しかし、整理整頓にも無頓着で、台湾総督時、官邸を一切掃除させず、友人が訪問しトイレ借ようとして、尋ねると庭を指し「その辺でしておけ」と云ったそうです。庭も手入れがされずに草木が伸び放題といった状態で、部屋は汚く荒れ放題で、絵葉書が好きで、ボロ隠しなのか玄関・応接間・寝室など家中に絵葉書を貼りつけたため、まるで子供部屋のようになっていたと云われています。ズボラぶりは終生なおらなかったという。
さらに、元二郎は協調性に欠け、風采も上がらず、また運動音痴であったらしく、ロシア公使館付陸軍武官時代の上司にあたる駐露公使の栗野慎一郎でさえ、彼の能力を見抜けず、開戦の直前に外務省に「優秀な間諜が欲しい」と要請したほどであっと云う。
(元二郎は、集中しすぎて自分で行動がコントロールできなくなり、山縣有朋の対談で、小便を垂れ流していることに気付かなかった例や陸大時代は下宿に猫を一匹飼っていて、軍服に猫の毛が付いたまま講義に出席するなど、何かに熱中すると、体や心を健康に保てない症状から、ほかのことを完全に忘れてしまうこともあり、坂本竜馬やエジソン、イチロー等、天才と云われた人物にみられる自分の興味のあることに関しては「過集中」や「記憶力」が特に優れています。)
明石元二郎の経歴
●年表 元治元年(1864)9月1日に福岡藩に生れる(0歳) 明治9年(1876)安井息軒の三計塾に入塾(12歳) 明治10年(1877)に陸軍幼年学校に入学(13歳) 明治14年(1881) 陸軍士官学校(6期生)に入学(17歳) 明治16年(1883)陸軍士官学校(6期)卒業(19歳) 明治16年(1883)少尉に任官 明治22年(1889)陸軍大学校(5期)卒業(25歳) ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て 明治25年(1892)正七位(武官では大尉の初叙位階)(28歳) 明治26年(1893) 参謀本部付(29歳) 明治27年(1894) ドイツ留学を命じられる(30歳) 明治34年(1901)フランス公使館付陸軍武官(37歳) 明治35年(1902)ロシア公使館付陸軍武官(38歳) 明治37年(1904)ロシア革命支援工作(40歳) 明治41年(1908)勲二等瑞宝章(44歳) 明治43年~大正3年(1910-1914)朝鮮統監府警務総長(46歳-50歳) 大正4年~大正7年(1915-1918)第6師団長(51歳-54歳) 大正4年(1915) 旭日大綬章(51歳) 大正7年~大正8年(1918-1919)第7代台湾総督(54歳-55歳) 大正7年(1918)陸軍大将(54歳) 大正8年(1919)10月24日男爵(55歳) 大正8年(1919)10月26日に歿(享年55歳) |
明石元二郎は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。夫人は国子(郡保宗の二女)、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。父は明石貞儀、母は吉田ヒテ(福岡、吉田岩見の五女)兄は明石直、妻:国1877-1907、後妻:黒田ノブ(父:黒田一葦)長女は蘭子1894-1919(夫:山根政治)次女は嘉代子1899-1956(夫:山根政治)、長男は元長1906-1949(男爵・貴族院議員)
(黒田一葦:福岡藩家老となり,尊王派として幕府と長州との調停、三条実美(さねとみ)ら五卿の太宰府(だざいふ)移住につくす。)
(安井息軒)
影響を受けた人物と云えば、川上操六と児玉源次郎ということになるのでしょうが、いや、
ご先祖様かもしれませんが?今回は、初めに出会った学者安井息軒を上げることにします。12歳の元二郎が77歳最晩年の息軒、たった1年の間のこと、お会い出来たどうかも定かではありませんが、今の小学校の6年生。アホな自分のことを云うのもおこがましいのですが、その年頃は、先生の言ったことや仕草などは良く覚えていることから、頭の良い少年元二郎が田舎から上京して初めての著名な師、その時は、どのように思ったかは分かりませんが、その頃感じて身についた事が後に生かされたものと推測できると思うので、安井息軒を少し調べて見ました。
(上⁻川上操六・下⁻児玉源太郎)
安井息軒は、文政7年(1824)昌平坂学問所儒者古賀伺庵の門に入ります。洋学にも寛大で渡辺華山に近い西洋文明観を持っていたと思われます。朱子学者でしたが諸子百家に精通していて厖大(ぼうだい)な著述を残しています。昌平坂に入った頃は、同門の仲間から軽蔑されていたらしいが、当時、朱子学で無かれば昌平坂学問所に入ることができなかったためで、息軒の学問は、すでに松崎悌堂の影響から自らの学問を確認していて、ほぼ確立されていたので同門の仲間たちから学問的な影響を受けたことは無かったといいます。
(諸子百家:中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」は孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子などの人物を指す。「百家」は儒家・道家・墨家・名家・法家などの学派を指す。)
それでも息軒は、多くの同門の仲間たちに自らの学問によらねばと勧め、広い視野の西洋の学問から軍事戦略を研究する必要性を感じています。
息軒は、2000人の門弟がいたと云われていますが、政治家・軍人では品川弥二郎・陸奥宗光・谷干城・三浦安・石本新六・黒田清綱・井田譲等が学び、その中で最も親しく息軒と交ったのは谷干城と云われていますが、谷干城は日頃、息軒の三計塾を「政治家の養成所」と言ったと云い、その学問は「経済(経世済民)」であり、また、儒家思想と法家思想とを統合的した考証学と云われています。以下、当時の儒教思想を簡単に比較してみると・・・。
考証学は、明末・清初の陽明学の流行により、朱子学批判が旺盛になる一方、社会の動揺に対処して、復興したのが、考証学で「実事求是」をモット一とし、道理にかなっているかどうかを主張します。これは漢代に起った理論で、空論の学風に対し、文献にみえる証拠に即して合理的に事実を究明する学問で、清代に、明代の主観的学風を排斥し、経書に即して客観的にその道理を考証する方針を示しています。極端に言えば、歴史学に近いものだといえます。
陽明学は、明代には「知行合一」主張する実践的で行動も大切だと説いています。王陽明という軍人が「心即理」を主張します。この心学は、幕末の吉田松陰に引き継がれ明治維新の原動力になります。
朱子学は、藩政初期より徳川幕府に採用され、非常に哲学的で、頭の中で理論を組み立てることが主軸になり、心を情と性に分け「性即理」を主張します。藩政期は、上意下達のみで幕府に都合が良い朱子学が採用されていました。
いずれも孔子ですから基本ベースは同じ土俵の上にいますが、解釈により意見が分かれ、国まで動かしています。 |
つづく
参考文献:「明石元二郎大佐」前坂俊之著 株式会社新人物往来社 2011 1月27日発行 明石元二郎 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)など