【日本(東京・金沢・熊本)・韓国・台湾】
金沢と明石の繋がりは、日露戦争の後、明治39年(1906)12月27日~ 明治40年(1907)10月4日の約9カ月間、歩兵7連隊の連隊長として就任しています。何か爪痕が残っていないかと県立図書館で、歩兵7連隊・第9師団・日露戦争の資料を探しますが、明石元二郎に関する資料は、歴代の連隊長名簿があるのみで、調べが足りないのかもしれないが?業績どころか逸話を書いたものはなく、歴代連隊長の名簿にも14代や15代と云うのもあり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に13代と書かれているのとも違い、迷いまで背負い込み半日を潰してしまいました。そこで、愚痴っていても始まらないので、歩兵7連隊について草創期を少し綴ります。
(金沢・歩兵7連隊の石川門)
昭和9年(1934)の「聯隊歴史」によると、“明治六年(1873)全国に六軍営に分け各軍営に一鎮台を置かれた、其名古屋鎮台の分営として歩兵第二十一大隊を當金澤に屯在せしめられた。是實に同年十一月の事で我が聯隊の基礎隊である。”とあり、その後明治8年(1875)4月の初めて徴兵令を実施され、同年9月9日東京青山御所で軍旗を親授され、翌9年3月第3大隊を増設し連隊編成をはしたとあります。西南戦争に明治27年(1894)従軍し、日清戦争に明治31年(1898)10月1日に従軍します。さらに、日清戦争後、軍備増強の必要性から明治31年(1898)に新設された6個師団の一つとし、北陸の富山・石川・福井各県の兵士で構成され、衛戍地を金沢として編成された第9師団に第3師団から所属変更になります。
(日露戦争に備えて金沢に設置された第9師団は、明治初年、金沢の人口12万人も明治30年(1897)には8万人まで減少しますが、師団設置以後、徐々に増え大正7年(1918)には15万人と劇的な回復を果たします。第9師団は大規模な軍用地転用や鉄道敷設、幹線道路、橋梁の建設など軍都としてインフラが整備され、しかも師団の毎年50万円(今の500億円)の経費が金沢の町に活気と潤いをもたらせました。)
(歩兵7聯隊歴史より)
明治42年(1909)10月26日、前の韓国統監伊藤博文が、ハルピン駅頭で韓国人安重根に狙撃され歿した翌年7月、明石元二郎は寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、朝鮮併合の過程で武断政治を推し進めます。そして、その年8月29日、寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有します。その時、明石は朝鮮の憲兵司令官に就任し、総督の寺内正毅と共に反日運動弾圧を行います。明石と親しかった葦津耕次郎は「併合政策は日本の大失態だ。自国の政治が整わないうちに他国に手を出すことは、他国を救えないばかりか、自国を滅ぼす」と、この圧政に反対し2人の激論が深夜まで続いたこともあったという。
(伊藤博文)
(寺内正毅)
(韓国駐在中、明石は所得の残余全てを故郷の母親に送金していた。また、日韓併合で賞与3,000円(今の約3千万円)が出た際には「自分一人で働いた報酬ではない」と言って、全額部下に分け与えたという。)
大正3年(1914)4月、参謀次長となるが、翌10月熊本の第6師団長に転じます。問題なく職責を全うしていましたが、わずか1年で熊本の第六師団長を下ろされています。その背景には、陸軍内における「スパイ蔑視」の風潮があり、児玉源太郎や山縣有朋はそのことを深く認識していたが、同時に情報の重要性も理解していたので、明石などの情報畑の人材を積極的に引き立てますが、しかし陸軍内では依然明石を警戒する空気は根強く、結果的に更迭されます。事実、明石自身単独行動が多く、陸軍内では派閥行動や組織内遊泳がしづらく、情報将校が出世出来づらい環境から、情報を軽視する風潮につながったものと思われます。
(金沢の連隊長の時も同じ理由で更迭されたのではと、私は、勝手に推測しています。??)
(台湾)
大正7年(1918年)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級します。総督在任中には台湾電力を設立し水力発電事業を推進したほか、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため新たに海岸線を敷設し、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正して台湾人にも帝国大学進学への道を開いきます。
(烏山頭ダムの八田與一の像)
(赤石元二郎の台湾での仕事は、今日でも台湾最大級の銀行の華南銀行を設立や、また八田與一が嘉南平原の旱魃・洪水対策のために計画した嘉南大圳の建設を承認し、台湾総督府の年間予算の3分の1以上にもなったその建設予算を獲得することに尽力します。大正8年(1919年)8月、台湾総督府から分離して独立の軍となった台湾軍の初代司令官を兼務します。台湾総督に就任した明石は圧政を心配する葦津に対して「今度は君の意見を尊重して、期待に背かないようにするよ」と語ったという。明石は赴任するとすぐに各地の巡視を行い、民情の把握に努め、彼の在任は1年4カ月と極めて短い期間だったが、上記の通り、その間に水力発電事業の推進、新教育令の公布施行(内地人との教育上の区別を少なくする)、司法制度改革、交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めて、台湾統治に尽力しました。)
(八田與一:金沢が誇る偉人で、明治19年(1886)に石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)に生まれ、明治43年(1910)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職します。八田は当初、衛生事業に従事し嘉義市・台南市・高雄市など、各都市の上下水道の整備を担当し、その後、土木技師となり嘉南大圳や烏山頭ダムを完成させています。詳しくはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
しかし、台湾総督在任1年4か月の大正8年(1919年)10月、公務のため本土へ渡航する洋上で病を患って郷里の福岡で死去します。満55歳でした。「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」との遺言により、遺骸は福岡から台湾に移され、台北市の三板橋墓地(現在の林森公園)に埋葬されました。
(その後、平成11年(1999)に有志により台北県三芝郷(現在の新北市三芝区)の福音山基督教墓地へ改葬されます。墓前にあった鳥居は林森公園の整備中二二八和平公園内に建てられていたが、平成22年(2010)11月に再び元の地に戻され、また、生誕地福岡付近の勝立寺には遺髪と爪を収めた墓があります。)
(宇喜多秀家)
P.S
明石元二郎のご先祖は、明石全登という安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将だと云う説あります。明石掃部とも言い宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンで、慶長5年(1600)、徳川家康と対立して石田三成が挙兵すると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、石田方に与すると7月から8月にかけて伏見城の戦い、そして9月14日の杭瀬川の戦いでは勝利し、9月15日の関ヶ原の戦いの本戦では、宇喜多勢1万7,000名のうちの8,000名を率いて先鋒を努めます。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君宇喜多秀家を諫めて大坂城へ退くように進言し、殿軍を務めます。戦後、岡山城に退くが、城は既に荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔し浪人となった全登は、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれています。中でも、如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が全登を匿ったとされていて、黒田如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされていますが、この時期の消息については諸説あるといわれています。
つづく
参考文献:「明石元二郎大佐」前坂俊之著 株式会社新人物往来社 2011年1月発行 「金沢市史・通史3近代」金沢市史編纂委員会 平成18年3月発行 「歩兵7聯隊歴史」歩兵第7聯隊編纂、印刷所吉田印刷部 昭和9年9月発行ほか