【日本(福岡・東京・金沢)・ロシア】
今回は、明石元二郎が金沢の歩兵第7連隊の13代連隊長だったことを知り個人的に興味を持ち、脱線して少し調べて見ることにします。明石元二郎は、今云うところの母子家庭で育ちます。父は福岡藩士明石助九郎貞儀(1300石)で大身の次男として元治元年(1864)に福岡藩の大名町に生まれます。父は慶応2年(1866)28歳のときに、理由ははっきりわからないが、北九州の今の芦屋町で切腹して亡くなります。兄の直が6歳、元二郎は3歳と幼いので家督が相続出来ず、親戚の養子にするのですが、家を維持することから広大な邸も人手に渡ります。母の秀子は大身の家の出ですが25歳で未亡人になり、実家の長屋で針仕事をしながら、2人の子供を育てます。
(この母は大変な賢母で、この時代、武士の未亡人がそうであったように子供たちの教育には特に熱心だったようです。子供の頃の元二郎は、鼻水たれのヨダレたれで、アダ名を「ハナたれ」とよばれていましたが、非常に頭がよく、大名小学校に県令渡辺清(もと大村藩士)が視察に来たとき、できる子を選び、揮毫(きごう)をさせたそうで、元二郎はそのひとりに選ばれというから成績も良く、しかし、人並み外れた腕白少年で、周囲の者もその対応には困惑したようです。7歳の頃には懲罰として藁のむしろ袋に入れられ、そのまま土蔵に放り込まれたが、泣きも叫びもせずに平然としていたという。)
(金沢第7連隊跡)
明治9年(1876)12歳のとき、元二郎は上京して、池の端の同郷で元藩の勘定奉行團尚静(実業家・団琢磨の養父)の屋敷に寄宿し、経世実学を主張した安井息軒の三計塾に入ります。この頃、身なりをかまわない元二郎に、洋行帰りの団琢磨が洋服の着方を教えてやったりしたそうです。 明治10年(1878)に陸軍幼年学校に入学します。幼年学校は、陸軍士官学校にはいる前の満13歳以上・満15歳未満の軍人志望の男子が入る学校で、安井息軒の塾は幕末から明治維新に貢献した多くの人が学んだ名門塾でした。
(陸軍幼年学校時代の明石は、お稲荷様にお供えされた赤飯の盗み食い常習犯で、また、夜中にボートに乗って転覆させたりなどイタズラを繰り返していたが、教師や先輩、友人などから嫌われたり憎まれたりすることはなかったという。)
(安井息軒)
(安井 息軒:幕末から明治初期までの江戸の儒学者。日向国宮崎郡清武郷の出身で、業績は江戸期儒学の集大成と評価され近代漢学の礎を築いたと云われています。門下からは谷干城や陸奥宗光など、そして明石元二郎ら延べ2000名に上る逸材が輩出されています。詳しくはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
明治14年(1881)1月、陸軍士官学校(6期生)に入学し、明治16年(1883)12月25日卒業、同期には皇族で元帥陸軍大将閑院宮載仁親王(参謀総長)はじめ計59名、うち大将に出世したのは明石元二郎ほか3名。在校中は、語学の達者で、とりわけ明石は堪能で、幼年学校からフランス語をやっていましたが、以後、ロシア語、ドイツ語、英語も完璧に理解していたという。
(後に、あるパーティの席で、ドイツとロシアの士官がいて、ドイツ士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた。明石は、「フランス語がやっとるです。」とわざと下手なフランス語で答えると、そのドイツ士官は、明石を無視して、ドイツ語でロシア士官と重要な機密について話し始めたという。しかし、明石は、ドイツ語は完璧に理解しており、その機密をすべて聞いてしまったという。)
(陸軍士官学校)
また、算術や図学が得意でしたが、ズボラな性格は治らず、士官学校同期生の星野金吾は「明石は十三四歳のころから一風変わった男であった。ズボンの帯をぐったりして、腰から落ちようとするのをいつも手で押さえていたから、裾が擦り切れてぶさぶさになっていた。」と回顧し、また上級生の本郷房太郎も「少尉時代の明石は剣をガチャガチャ鳴らし、ズボンの金ボタンが外れようが何だろうが一向平気な構わぬ男だった。」と語るなど、明石のズボラさは陸軍内でも後々まで治ることなく有名だったようです。また、士官学校では大のイタズラ好きで、以下、悪戯の数々をまとめます。
(士官学校から陸軍大学校時代の明石は大のイタズラ好きで、同期の立花小一郎が後年「若年の明石が年長生を凌駕し、悪戯大将となって暴れまわっていた。」「あまりの悪戯者で、メッケルからは却って睨まれていた。」と言うほどであった。どんな事をしていたのかというと、教官不在中を見計らって教官室前にある椎の木に登って実を盗み取っていたところ、教官が戻ってきて、数時間木の上から下りられなくなった。他にも週番士官が巡視に来るときは、あらかじめドアノブに靴墨を塗っておき、ドアの上に砂入りの箱を仕掛けて戸が開くと砂を被るように仕組んでいた。また、当時の士官学校にいたフランス人教官はエスカルゴが大好物で、学生たちが捕まえたカタツムリをプレゼントすると喜んでポケットにしまい、そこで、明石はカタツムリの代わりにカエルを紙に包んで机の上に置いておき、何も知らない教官は喜んで「ありがとう」と言ってポケットにしまいこんだが、授業中に紙包みから抜け出したカエルがポケットから飛び出し、驚くと共に怒り出したという。たわいもないもの等々)
(メッケル)
(メッケル:クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(1842年3月28日 - 1906年7月5日)は、プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人。最終階級は少将。明治前期に日本に兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化(ドイツ兵制式)の基礎を築く。詳しくはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
明治20年(1888)1月31日、陸軍大学校(5期生)に入学し、明治22年(1890)12月9日卒業、立花小一郎大将はじめ計10名、調べると明石元二郎は同期の首席でも優等ではありませんが、出世頭であったことは確かです。陸軍大学校は、陸軍士官学校を卒業し部隊に配属された士官の一部が陸軍大学校の入学試験に合格すると陸軍大学校に入学出来ます。陸大を受験できる機会は限られていて、当時、東大と比べようはありませんが、難易度も高く軍人の超エリート養成機関だったようです。
(明治19年(1887)までは、陸軍はフランス式兵制とドイツ式兵制を併存していたが、明治18年(1885)3月にドイツ陸軍参謀少佐メッケルを3年間招聘しドイツ式兵制を学び、陸大の教育課程をドイツ式兵制に改革しています。詳しくはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
(晩年の明石元二郎)
陸軍士官学校同期生の安藤厳水は、“明石は、いつでも擦り切れた服を着ており、はなを垂らし、服装検査ではいつも叱られていた“と証言しています。「彼が陸軍大学時代に、当時士官学校の教官であった余(私)を訪ねてきて、校内を二人連れで歩いていると、当時校長であった寺内正毅さんがやってきた。すると明石は、しきりに自分の左側を寺内さんの目に触れぬよう気遣うので、どうしたものかと調べてみると、剣の鞘は一向に磨きもせず、赤錆になっていたからで、それを寺内さんの目に触れぬようにとの苦心であった。」というエピソードを語っています。後年、その寺内から重用された明石であったが、友人たちは「なぜ性格が正反対の寺内さんに気に入られたのだろう。」と不思議がっていたとか、この他にも様々なイタズラを率先してやっていたようで、同級生達の回顧談は「ズボラな明石の性格」と「イタズラの思い出」が大半を占めているそうです。
(明石は、陸大時代は下宿に猫を一匹飼っており、軍服に猫の毛が付いたまま講義に出席していたらしく、何かに熱中すると、ほかのことを完全に忘れてしまう性格でもあり、上原勇作の手引きで山縣有朋と対談した時、どんどん話にのめりこんでゆき、しまいには小便を垂れ流していることに気がつかずそのまま熱弁を振るっていたという。山縣もその熱意にほだされ、小便を気にしながら対談を続けざるを得なかったという。協調性に欠けていて風采が上がらず、また運動音痴であったとされていて、ロシア公使館付陸軍武官時代の上司にあたる駐露公使の栗野慎一郎でさえ、彼の能力を見抜けず、開戦の直前に外務省に「優秀な間諜が欲しい」と要請したほどであったという。)
(山縣有朋)
陸軍大学校時代は、戦術と数学で優秀な成績を修めています。当時、数学は弾道計算のために重視されていたが、明石は歩兵科であるにも関わらず、砲兵科の学生よりも成績が良かったという。また、語学にも際立った才能を発揮し、陸軍大学校卒業の翌年、転機がやってきます。明石は参謀本部配属となり、「日本のインテリジェンスの父」とされる川上操六に出会い、「諜報の術」を叩き込まれました。
(川上操六)
(陸軍大校卒業後、参謀本部に勤務していた明石はある時に野外要務令の編纂過程で「ポケットに弾丸を入れる」という項目に猛反発したことがあったという。すると後に陸軍少将になる田村怡与造が「それは明石のズボンならばのことで、他の人ではそうではないよ」と云ったといわれています。穴が開いていて弾丸を入れることの出来ない明石のポケットとは違うと揶揄したため、この時ばかりは明石も反論できなくなってしまったらしい・・・。)
(川上操六:(嘉永元年(1848)旧暦11月11日 - 明治32年(1899)新暦5月11日)は、日本の陸軍軍人、子爵。官位は参謀総長・陸軍大将。栄典は従二位・勲一等・功二級・子爵。幼名宗之丞。桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。詳しくはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
陸軍士官になっても、明石のズボラは変わらず、士官学校同期の安藤が明石の官舎を訪れ2人で酒を酌み交わしていた時、安藤が「小便に行きたいのだが厠はどこだ。」と尋ねると明石は「その辺でしておけ」と庭を指差した。安藤は「憲兵司令官にまでなっても不衛生なやつだった」と回顧しています。部屋の中は汚く、庭も手入れされずに草木が伸び放題といった状態で、明石のズボラぶりは終生なおらなかったと回顧しています。
日清戦争後の参謀本部勤務中に勃発した米西(アメリカとスペイン)戦争では、観戦武官としてフィリピンに赴いたとき、アメリカ軍は、陸戦においてはスペイン軍とは直接交戦せず、フィリピンの独立運動の指導者アギナルドの率いる市民軍に武器と資金を援助したのを目の当たりにします。アメリカ軍の支援を受けたアギナルド市民軍は、各地でスペイン軍を撃破し、これを駆逐します。明石は、この戦いを観戦することで、後にロシア革命工作のヒント(敵の中の反対勢力を支援する)にしたと言われています。
(任務のため、スパイ活動や憲兵政治など社会の暗部で活躍したが、私生活では極めて清廉潔白で、その一例として、前回も書きましたが、革命工作資金の100万円のうち27万円が使い切れずに残ってしまった。本来軍の機密に関する金であり、返済の必要はないのだが、明石は明細書を付けて参謀次長の長岡外史に全額返済し、うち100ルーブル不足していたが、明石が列車のトイレで落としてしまった分であっという。)
(日露戦争)
ロシアで活動した明石は、親友の書記官に「ロシアに革命は来るかどうかは、まだわからない。しかし山の木は十分に枯れている。火をつければ山火事ぐらいはおこせそうだ」とイタズラぽく云ったという。「血の日曜日」事件を、スエ一デンの首都ストックホルムの宿で聞くと、明石は、反乱用の兵器の購入に奔走しており、兵器弾薬はスイス(無政府党員により)で、小銃2万5千梃、小銃弾120万発を買い付け、日本の在欧商社高田商会に輸送を依頼しています。これが、日露戦争の講和後にロシアの革命分子にわたり1月以降、ロシアの社会不安は、革命前夜の様相を呈しはじめます。
(高田商会)
(高田商会:日本の兵器機械商社で、日清・日露戦争期に急成長し、総合商社としてはともかく兵器機械商社としては大倉組と並んで三井物産をも凌駕していたという。創業者高田慎蔵は、明治3年(1870)から築地居留地ドイツ商館の輸入商であったアーレンス商会に勤務し、同商会からベア商会が独立すると同商会の番頭となった。高田がベア商会の商権を買い取って明治13年(1881)1月に高田商会が設立された。兵器機械などの輸入販売業としては業界トップとなり、1894年の日清戦争では軍需物資を扱って巨額の利益を上げた。現在は第3次の株式会社高田商会が設立され、現在も機械専門商社としてその名は存続しています。東大出身のタレント高田万由子さんは子孫です。)
明石は、ヨーロッパ赴任中も、金銭に無頓着で不衛生で歯も磨かず、ズボラで、泥靴のまま公使館に入り、そのまま平気な顔をしていて、日露戦争後高官となった後も、明石は、薄汚い布団で犬を抱きながら寝ていたという。
つづく
参考文献:防衛研究所ウェーブサイト:http://wwww.nids.mod.go.jp 明石元二郎 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)など