【日本・ドイツ・ロシア】
今回の明石元二郎を調べていて、昔、買った本を思い出し本箱の隅っこを探すと、函焼けした大宅壮一著の「炎は流れる3―明治と昭和の谷間―」の全4巻が見つかりました。50数年前、初めて買った大宅壮一の本でした。当時、今のお金で1冊420円(今の4,200円~8,000円ばかりか?)もする本などはなかなか買へません。そのきっかけは東京に出て初めて出来た友人から当時流行っていた司馬遼太郎の「竜馬は行く」を借り読書の面白さ知って嬉しくなり、当時は互いにお金もなく新刊本を何冊も買う余裕もなく、今度は彼に借りて貰いたくて、単純に幕末の後は明治だ!!ということで、なけなしのお金で買ったのが「炎は流れる」でした。読書に慣れないものですから何度も読んだので愛着もあり、捨てられず残っていたものと思われます。明石元二郎の記事が何巻か思い出せず全巻の目次を探し3巻に有ることを確かめ20代に戻り再読しました。
大宅壮一は「炎は流れる」の中で、諜報活動で、世界史的にもっとも大きな役割りを果たしたのは明石であろう。彼は日露の戦いを日本を勝利にみちびく裏工作に驚異的な成功をもたらしたばかりでなく、ロシアの革命的分子に多大な資金や武器を供給し、この援助をすることによって、少なくとも結果においては、帝政ロシアをくつがえす過程にあって、レーニンやトロツキーに勝るともおとらぬ役割りを果たしたともいえる。と書かれています。そして、この本では、ある元陸軍小将が「或る欧州の高官は、明石ほど一人で大金をつかったものもあるまいが、かれ一人で十個師団は、立派に働いている」とあり、さらに「じつにその通リ、否、それ以上かもしれないのである」とベタ褒めです。
(大宅壮一:大正昭和の日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。(明治33年~昭和45年)一方で造語の達人で、「一億総白痴化」「駅弁大学」「虚業家」「恐妻」「口コミ」「太陽族」などは有名。詳しくは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
(少尉時代の明石元二郎)
明石元二郎の陸軍大学時代の校長児玉源太郎ら参謀本部の判断で、明石元二郎に諜報費用として100万円(現在の価値で約100億円)という大金が渡されています。当時、参謀本部次長を務めていた長岡外史は、「明石は、風采といい、顔付きといい、あのへんな男に100万円(約100億円)という大金を委ねてもいいのかなあと思ったものだが、実際の手並みを見てびっくりした」と後に述べています。この話には後日談があります。この100万円はロシアの反政府勢力の資金などに使われますが残金があり、本来、明石元二郎の自由に使わせる金として渡しているので、返金は求められなかったが、戦後、ただ明石の事績の中で、私たちが知ることができるのは、戦後、明治39年(1906)「明石復命書(落花流水)」とともに、明細を添え残金27万円をきちんと返却しています。この清廉潔白さに、児玉源太郎と参謀本部も明石元二郎にこんな大金を預けたものと思われます。
(児玉源太郎:日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、 明治36年(1903)に、前任者の死亡により、参謀総長大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務めています。詳しくは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
(レーニン)
ロシア革命のレーニンとの関係にいて大宅壮一氏は、「明石元二郎がレーニンを知ったのは、日露戦争のはじまる前で、ロシア語の家庭教師に雇っていたブラウンいう大学生を通じてであるが、のちにすっかり懇意になった。元二郎がいつも葉巻をくわえているのを見て「君はぜいたくだ」とレーニンがいったという。レーニンという男は、こういう細かいところにいつも気をくばっているのである」と云う逸話が書かれていますが、これはどうも嘘だという説があります。
(明石元二郎とレーニンが会っていたか否かについては、のちに日本の歴史家と北欧の研究者が共同で調査を行いっていて、その調査によると当時の明石元二郎の拠点がストックホルムでレーニンと会談した事実は確認されず、現地でも日本のような説はなく、また、ロシア帝国の公安警察が明石の工作(謀略)活動の成果は認めているものの、レーニンと会ってはいないとされています。また、当時の陸軍の事情から諜報活動は陸軍で傍流扱いされていて、その屈折した明石の感情から出た嘘だと推定されたむきもあります。ロシア革命は、それから10年ぐらい経て大正6年(1917)に起きていて、日露戦争の頃、日本政府ではレーニンの名を知っている人はいなかったそうです。また、近年の研究では明石元二郎が武器の供与などを行ったフィンランドの独立運動をはじめ、様々な武装蜂起の計画はことごとく頓挫したことや、欧洲における彼の謀略活動はロシアやフランスの警察によって監視されていたことなどが明らかになっていて、明治37年(1904)10月1日、明石元二郎がパリにロシアをはじめ、ポーランドやフィンランドの革命家を集めて、ロシアで大反乱をおこすための工作をやろうと企てていますが、その会議にレーニンは不参加と云うこともあり、明石元二郎の活動を戦時謀略活動としてどう評価するかに疑問を持つものもいて、今も明石とレーニンは会ったかどうかは藪の中か・・・??)
(乃木希典)
明石元二郎は、明治35年(1902)にロシア帝国公使館付陸軍武官になり、日英同盟に基づいた情報協力でイギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、明石の依頼によりライリーは明治36年(1903)から建築用木材の貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしています。
バルチック艦隊の出撃の報を受けた海軍は、旅順艦隊殲滅を優先するよう動き出し、203高地を攻略して欲しいと進言があり、第3軍司令官乃木希典大将が苦戦しながらも攻撃を開始から一週間の明治37年(1904)12月5日に203高地を陥落します。その頃、旅順艦隊は、ほとんどの艦艇は黄海海戦での損傷が直っていなく、要塞防衛戦に備えていた搭載火砲や乗員を出していたので戦力は無力化しており、自沈ではあったが、陸軍は眼下の旅順港への砲撃でロシアの旅順艦隊を壊滅、あの有名な東郷平八郎元帥が日本海海戦でバルチック艦隊を撃沈させ完全に制海権奪い、奇跡を起こします。
(この場面は日露戦争のクライマックス、映画や小説で見るのがベストなので私は簡単にまとめました。)
(日本海海戦)
明治37年(1904)明石元二郎はすでに大佐となり日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館から中立国のスウェーデンのストックホルムに移り、明石元二郎は以後この地を本拠として活動します。まずフィンランド独立運動をすすめていたフィンランド人の弁護士、コ二・シリヤクスと接触し、これがフィンランドの独立とロシア革命、そして日本の勝利のために大きな働きをするきっかけになります。
シリヤクスを通じ、スウェーデン参謀本部のアミノフ参謀大尉と接触し秘密の手紙や資金をロシア国内のスパイに送ってくれるようになり、長年ロシアの圧制に苦しんでいたフィンランド人は、日本が勝つことで、フィンランドの独立を促すことになるといって、亡命者たちが協力してくれ、また、ロシア陸軍に配属されているポーランド人をロシア軍内で反軍、独立のサボタージュを起こさせるなど、陸軍部内では高く評価されていますが、そのことは日本の日露戦争の正史には書かれていなく、終戦までは公表されていませんでした。
(当時、陸軍将校が明石に「閣下が日露戦争中にやられた働きは、大へんなものでございますね」と言うと「俺の功績が日露戦争の正史のどこに書いてあるか」と言ったそうです。正史には出てきませんが、谷中将の『機密日露戦史』は、「日露戦役戦勝の一原因もまた明石大佐ならざるか」と述べ、男爵受爵もこの功によると述べているそうです。また、第2次大戦後に発刊された、デニス・ウォーナー夫妻の名著、『日露戦争全史』には明石大佐の活躍の項に、「ニコライ皇帝が想像していたよりも、はるかに身近なところで、この戦争と、ロシア宮廷の運命にきわめて大きな影響を与えることになる事件が、今や引きつづいて現れ起こっているとしている」と述べ、明石の駐在武官赴任にふれています。)
(ロシア皇帝ニコライ2世)
ロシア革命は、明治38年(1905)1月、日露戦争で乃木大将による旅順陥落してまもなく、ロシアの当時の首都ペテルスブルグで、恒例の“川祭り”が皇帝以下百官の臨席のもと盛大に開催されている最中、対岸から砲弾が飛んできて、参列者の頭をこえ、冬宮の窓を破る珍事がおこります。
これは対岸のロシアの軍隊より撃ちだされたもので、帝政ロシアの将来に、不吉な暗示を与える一大不祥事でした。続いて1月22日「血の日曜日」という大惨事が起こります。これはガボンという神父が、聖像や皇帝の像をかかげ、讃美歌を歌いながら、彼が組織した労働者とその家族のデモ行進で、冬宮広場まで進んだところロシア軍のコダック兵がいっせいに発砲し、抜剣した騎兵隊が突入し、死者約千人、負傷者約二千人がでます。これによりロシア全土に抗議ストが起こり「第1次革命(1905~7)」のきっかけになったと云われています。
P.S
当時、フランスの有名な歴史家でソルボンヌ大学教授のセニヨボス博士は、講壇で学生に「ロシアの国債を買うのはやめるように、父兄にいいなさい。大切な金をなくすだけだから」と云ったと伝えられ、それまでロシアの最大のお得意はフランスであったが、そこでロシア信用がなくなり、暴落したのは云うまでもありません。この事件後、ガボン神父はロンドンに亡命、帰国して再起を計りますが、裏切り者として、フィンランドで労働者に暗殺されたが、明石元二郎と親しい間柄であったという。これらの事件が、明石元二郎の秘密工作と果たしてどの程度繋がっていたか?いまとなってはつかみようがない。と大宅壮一氏はお書きになっています。
つづく
参考文献:「炎は流れる―明治と昭和の間3」大宅壮一著 昭和39年7月 文藝春秋新社発行 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』写真も含む