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日露戦争②高橋是清と外債募集

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【日本・イギリス・ロシア】

前回でも書きましたが当時の国家予算は約4億円。今風に云うと明治36年(1903)での日本のGNP(国民総生産)27億円弱で、ロシアの3分の1でしかありません。戦費国家予算の凡そ5年分の18億円になり、大蔵省(現財務省)では、金本位制になってまだ6年目の明治36190311月ごろから対露戦に備えて、正貨(額面と同じ値打ちの金貨幣)の実態と流出入の見通しをひそかに調査していました。また、翌年 1月早々には、日露開戦不可避との予想のもと横浜正金銀行を通じて、売為替、信用状の発行に手心を加え、民需の輸入抑制、輸出為替の買取りを行なうなど正貨の蓄積につとめ、一方、戦争となった場合の正貨獲得のために、戦費18億円のうち戦時公債14臆円でまかなうことになり、そのうち半分の7億円海外市場(英国ポンド建て)で準備することになります。

(開戦直後、明治37年(1904 2月、松方正義 ・井上馨の両元老、大蔵大臣、日銀総裁の間で、外債使節の人選が行なわれ、日本銀行副総裁高橋是清が選ばれます。高橋是清は命を受けるにあたり、元老井上馨に対し、“政府は委任の条件を明確にして相当の権限を与えること”“外債に関しては高橋以外のものに直接・間接に申し付けない”とし、内地で外国人の申込みがあっても一際、取り合わないことを元老井上馨に約束させ、さらに井上馨を通じてこの約束を大蔵大臣承認させます。この線に添って高橋是清海外派遣閣議決定され、 222日、委任状及び命令書が高橋是清に交付されます。)

拙ブログ

貨幣は国家が造るもの・・・⑬高橋是清と226事件そして昭和恐慌

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12608545005.html

 

戦費が無いまま日露戦争に突入した日本は、日銀副総裁高橋是清をアメリカやイギリスの派遣し、目標7臆円のうち1千万ポンド(1臆円)という巨額の日本公債をロンドンで売り出します。ところがなかなか売れず、一縷の望みを抱いて駆け込んだユダヤ資本家のロスチャイルドでは断れ、また、高橋是清にロンドンの金融仲買人W・フート・ミッチェルロンドンの銀行家は、日本政府が明治36年(1903)の第1回英貨公債発行は、パース銀行、香港上海銀行などロンドンの発行銀行に約束した金本位制を維持できるかどうか?その能力に疑問を持っている。②民衆は初戦で日本が勝利してもロシアが最後の勝利者になるに違いないと秘かに考えている。と言っていると聞き、ロンドンでは外債募集絶望的とする見方だと思い知らされます。

 

(明治37(1904)2月24日、日銀副総裁高橋是清は横浜出帆の汽船でアメリカに向かいます。すでに同月8日には連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し、陸軍の先遣隊も朝鮮の仁川に上陸を開始して、210宣戦布告します。高橋是清の役割は欧米で外債を募集し、戦費を調達することで、日本政府はとりあえず1年分の戦費4億5千万円と見積もり、そのうち1億5千万円が海外に流出する予想を立てます。しかし日銀所有正貨余力8千万円(約8,,000ポンド)程度しかなく、不足分を何としても臨時外債で調達しなければならず、(当時の国家予算約4億円高橋是清はアメリカに着くとニューヨークに直行して、数人の銀行家に外債募集の可能性をはかりますが「豪胆な子供が力の強い巨人に飛びかかった」と日本国民の勇気嘆賞しますが、米国自体が産業発展のために外国資本誘致する状態ではなく起債無理との事で、アメリカがだめならロンドンで起債するしかないと考え、高橋是清はすぐにイギリスに向かいます。)

 

 

 

当時の欧米の日本に対する状況は、高橋是清明治371904317日にはニューヨーク滞在中、ロンドン在中の横浜正金銀行支店支配人山川勇木から電報が届き「ロンドンでは、募集の見込みはない、今日正金銀行のごときは鐚(ビタ)一文の信用もない」と書かれていて八方塞がり状態でした。しかも、日本の正貨事情は、戦前に防衛策を講じていたにもかかわらず、開戦前後から月々 1千万円余正貨流出があり、正貨所有 1億円台を下回る状況で、なおも臨時事件費(戦費)を支払うため巨額正貨を要する見込みであったから、政府当局者は高橋の外債募集の成立を期待して待っています。

 

(日本ではすでに外貨準備は約8千万円以下になり、兌換券発行額は 36千万円に達する見込みで、早急に外債の成立を必要としていました。そこで政府は、さっそく大蔵省証券発行の計画を中止し、高橋是清の商議を進め、なるべく条件を改善し実収額を増加するよう申し送ります。イギリス資本家側は、日露戦争の終局の見通しに疑念をもち、担保の承諾が戦時公債の成立条件であると主張し、さらに関税抵当に対しては、中国に対すると同様イギリス人に税関を管理させねばならないとの考えを持つ者が多く、正貨準備はすでに8千万円以下になっており、早急に外債の成立を必要としていました。)

 

(シフ・高橋是清)

 

そこで、明治371904426日、27日ごろ高橋是清はロンドンの銀行家に、日本政府の希望額1000万ポンド半額500万ポンドとし、条件は、ポンド建て、利子年6分で同じで額面100ポンドを発行価額92ポンドだったのを93ポンドとし、期間5ヶ年を7ヶ年にし、これらを英国銀行家たちに呑ませることに成功し契約調印にこぎつけ511契約調印。その祝が53日、高橋是清旧知のユダヤ資本のスパイヤーズ社ロンドン支店長アーサー・ヒルが自邸で晩餐会を催され、その晩餐会で高橋是清の隣の席に“偶然“座ったユダヤ人ジェイコブ・シフ氏と話が弾み劇的な出会いになり、シフ氏が残りの500万ポンド分約束してくれます。

 

 

クーン・ロ一ブ商会首席代表ジェイコブ・シフ氏は、アメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・ヘンリー・シフで、ロンドンで苦闘する高橋是清、そして日本の外債募集に大きく道を開くことになり決定的な影響を与えます。シフ氏が日本の外債を引き受けたことにより、外債発行は軌道に乗り、高橋は合計6回に及ぶ外債募集を成功させることができました。高橋是清はシフ氏の決断への感謝の気持ちをシフ氏の没後、英文追悼文に記しているが、「ロンドンとニューヨークで発行できることになったことは、英米両国民の日本の大義に対する精神的支援を具体的な形に表したものである」と述べるとともに、シフ氏を「正義の士」と称えています。また、戦争が終了後、明治38(1906)シフ氏は日本政府に招聘され、38日にパシフィック・メイル汽船会社のマンチュリア(満州)号にのり、325日に横浜に到着。328日には皇居を訪れ、明治天皇より最高勲章の勲一等旭日大綬章を贈られています。

 

 

一説には、シフ氏高橋是清の出会いは決して“偶然”ではなかったという。シフ氏が計画的に高橋是清に近づいたと考えられる節があります。最新の研究によれば、日露戦争開戦直前の明治36年(19042月にニューヨークのシフ邸で開かれたユダヤ系アメリカ人指導者たちの集まりでシフ氏は、72時間以内に日本とロシアは開戦する。私は日本への資金協力を実行すべきかどうか検討している。計画を実行に移した場合、ロシア国内のユダヤ人にどのような影響を及ぼすか、皆さんの判断を伺いたい。」とすでにこの年初め、クーン・ロエブ商会首席代表ジェイコブ・シフ氏は日本への資金協力を検討し始めていて、セオドア・ルーズヴェルト大統領もアメリカ国内世論も日本寄りであり、会合でのユダヤ人指導者たちは日本への協力に好意的であったと推察されます。

(日露戦争が始まろうとする明治36(1904)2月、シフ氏は毎年の定例となっている欧州旅行への出発を前に、セントラルパークを望む屋敷にユダヤ人商人会のメンバーたちを集めて会合を開いたとき、話題は昨年ロシア領で発生した凄惨なポグロム(ユダヤ人に対する集団的迫害行為)の話もあり、金銭的に余裕のできたユダヤ人商人らは、キリスト教や非宗教的慈善事業にも多く参加したが、苦労する同胞への支援に一番熱心で、そのために国内統治のためのはけ口としてユダヤ人迫害を容認するロシア政府は許しがたかったと云う事情も有ったと思われます。また、ロスチャイルド家がロシアとの関りから日本の国債の購入を拒否し、その代わり同家は行動を共にするジェイコブ・ヘンリー・シフを紹介しのだと云う説もあり、中々複雑です。)

以後明治37年(1904512日に募債が開始され、この時、丁度鴨緑江における日本の戦勝の結果が報道され人気を呼び、また市場が低利であったこととあいまって申込みが殺到し、募債は非常な好成績となります。発行銀行は契約に従い、 明治37(1904) 5月から8月までに 4回に分けて英貨900万ポンド (8,683万円〉をロンドンの日本銀行代理店に払い込まれ、この大部分は日本銀行に引き渡され、一時借入金を返還し兌換券正貨準備にあてられます。こうして一時正貨危機は去ります。明治37(1904) 10月、大蔵大臣は在英の高橋日銀副総裁に明治37年中にさらに 1から2億円の外債募集の準備を命じています。

(註:鴨緑江の戦いは、明治37年(1904年)2月~4月にかけて朝鮮半島を北上し、4月末には大韓帝国と清国との国境にあたる河(鴨緑江)を守備するロシア軍と戦闘状態に入ります。日露戦争における大規模な陸上戦闘で日本軍は勝利します。)

その後、高橋是清英国銀行団シフ氏の協力を得て、合計6回に渡り、12,500万ポンド(約12億5千万円)と矢継ぎ早に公債募集を成功させていった高橋是清が戦況と市況を睨みつつ、的確に募債条件を設定し、新聞を通じて投資家たちにきちんと説明を行い、さらにドイツフランス市場にも募集を拡げていった成果でした。ニューヨークでは、巨額の起債にも関わらず金融市場を乱さないよう注意を払ってくれたと、世界の投資家たちから賛辞を寄せられました。

 

 

(小村寿太郎)

まさに高橋是清の功績は、旅順要塞の陥落に貢献した乃木希典大将バルチック艦隊を撃滅した東郷平八郎元帥に勝るとも劣らない功績は、日本にとって絶大な恩恵をもたらします。前回も書きましたが、明治38(1905)9月4日、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間でアメリカ・ニューハンプシャーのポーツマスで講和条約が調印されました。

P.S

シフ氏は、1920(大正9)にこの世を去ったあと、1929年の世界大恐慌クーン・ローブ商会も大きな打撃を受ける一方で、孫のドロシーは36歳の時「ニューヨーク・ポスト」紙を買収し、1976年にメディア王パート・マードック氏に売却するまで社主として君臨し、歴代大統領とも親しく交わるほどの華やかな経歴だったようです。第2次世界大戦後、クーン・ロープ商会は同じユダヤ資本リーマン・ブラザーズと合併します。しかしシフ氏の末裔はアメリカ政財界に隠然と名を残しています。さかのぼればクーン・ロープ商会は、1850年代アブラハム・クーンソロモン・ローブ(ローブはリーマンの語源)の姓を組み合わせてクーン・ローブ商会となります。その後、事業で手を組むと同時にクーン家の娘イーダとローブ家のモリスが結婚して一族となり、その娘であるテレサと結婚したのが、ジェイコブ・ヘンリー・シフです。クーン家は、ドイツ・フランクフルトゲットーロスチャイルド家と共に住んでいます。その後、クーン・ロープ商会1867年にニューヨークに本部を置き、日露戦争当時、世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海のバクー油田の利権を持つロスチャイルド家は、ロシアとの関りから日本の国債の購入を拒否し、その代わり同家は行動を共にするジェイコブ・ヘンリー・シフを紹介し、日本は戦費を調達が出来たとされています。クーン・ローブ商会は日露戦争後も金利を支払い続け、シフ氏が「日露戦争で最も儲けた」と云われています。1911年にはクーン・ローブ商会は、ロックフェラーと共同で、後にチェース銀行と合併するエクイタブル・トラスト社を買収し、関東大震災のときは台湾電力の社債を引受けています。1977年にリーマン・ブラザーズに統合され、クーン・ローブ・リーマンと称し、その後、1984年にクーン・ローブ・リーマンアメリカン・エキスプレスに買収され、シェアソン・リーマン・アメリカン・エキスプレスに改名された際、クーン・ローブの名は消えることとなりました。現在も聞く、ロスチャイルド、リーマン・ブラザーズ、ロックフェラーなどのユダヤ資本が昔から世界をリードしたいことを思い知らされます。

 

つづく

 

参考文献:総務庁「日本長期統計総覧」「高橋是清の日露戦争明治官僚の剛胆と運拓殖大学学長渡辺 利夫」「第3期 経済の発展と大蔵省」財務総合経済研究所「ジェイコブ・H・シフと日露戦争」アメリカのユダヤ人銀行家はなぜ日本を助けたか二村宮國著 「お金」の日本史 近現代編㊲ 井沢元彦著 2021226日夕刊 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より、写真も含む


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