【日本・イギリス・ロシア】
日英同盟は、日本とイギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約)です。明治35年(1902)1月にロシアの極東進出の「南下政策」を阻止する目的として、駐英日本公使林董とイギリス外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ・フィッツモーリスの間で調印されました。しかし、2年後に起こる日露戦争でのイギリスの立場は、日本と共に戦うと云うものではなく、ロシアの「南下政策」に対し日本が盾としての手駒でしかなく、ましてや小国日本が10倍の大国ロシアに勝利するとはイギリスは勿論、世界中で何処の国も信じてはいませんでした。
(ロシアの南下政策:当時ロシアは、不凍港ばかりで貿易にも支障を来たし、力ずくで西はオスマントルコ、東は清国に南下してきました。イギリスはスエズ運河が生命線のため南下を妨害しますが、イギリス最大の植民地インドに迫って来ていました。また、明治32年(1899)に入った頃にはロシア帝国主義の満洲全域の支配体制はより盤石なものとなっていて、ロシアがこの地域に関税をかけるのも時間の問題でした。さらに明治33年(1900)に起こった義和団の乱に乗じてロシアは満州を軍事占領しました。ロシアは満州からの撤兵の約束をしたが、なかなか撤退しようとせず、むしろ南の朝鮮半島にも触手を伸ばすようになり、これにイギリスと日本は警戒を強めます。両国にとってロシアは共通の仮想敵国が本当の敵国になったということです。)
この頃、日本の政界では、満韓交換論の伊藤博文や井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、対露強硬論の山縣有朋、桂太郎、松方正義、小村寿太郎らはロシアとの対立は遅かれ早かれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えます。結局、満韓交換論(日露協商交渉)は失敗し、外相小村寿太郎により日英同盟締結の交渉が進められ、伊藤博文ももはや日英同盟に反対はせず、前出の通り明治35年(1902)1月30日にはロンドンの外務省において日英同盟が締結されます。また、弱い立場の日本は日英同盟を契機として日本は金準備の大部分をロンドンに置き、その半分以上はイギリス国債に投下し、またはロンドン預金銀行に貸し付けるようになりました。
(第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたもので、また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束します。条約締結から2年後の明治37年(1904)には日露戦争が勃発します。しかし、イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ[要曖昧さ回避]等で日本を助けたといわれています。その後、第二次、明治38年(1905)、第三次、明治44年(1911)と継続更新されたが、大正10年(1921)のワシントン海軍軍縮会議の結果、調印された四カ国条約成立に伴って、大正12年(1923)8月17日に失効します。)
日露戦争の規模は、戦争に参加した日本の軍人と軍属は、戦地と後方勤務をあわせて108万人を超えています。このうち戦死者約8万8千人・負傷者約15万4千人。日清戦争時の戦死者と比較すると、およそ10倍の死者が出たことになります。戦争遂行に要した多額の戦費約18億2千万円(今のお金で約3兆6,400億円に相当)はほとんど国内外からの借金(公債)によってまかなわれたので、当時の日本の財政(明治38年(1905)度の政府歳出決算額約4億2,000円)を考慮すれば非常に重い負担となりました。総務庁「日本長期統計総覧」より。
(今のお金の換算は、明治20年のそば代1銭・明治37年の2銭として計算しました。この際、今のそばの価格400円。)
日本軍(戦力 約30万人) | ロシア軍(戦力 約50万人) |
損害 戦没8万8,429人、うち戦死戦傷死は 5万5,655人・病死2万7,192人・負傷者15万3,584人。 捕虜1,800人。 | 損害 戦没8万1210人、うち戦死戦傷死は 5万2,623人、病死2万人、負傷14万6,032人。 捕虜7万9,000人。 |
『ウィキペディア(Wikipedia)』
(因みに、日清戦争の戦費:2億3,340万円(現在の価値に換算して約9,200億円)。開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当した。しかし、日清戦争では清国からの賠償金は日本円で3億6千万円が入りますが、日露戦争では、後ほど書きますが賠償金はありませんでした。)
日英同盟と日露戦争の概要
◇日英同盟の成立 ◇ロシアの南下=北清事変→満州を事実上の占領 日本に圧力 韓国に新露政権 (満韓交換論) 伊藤博文・井上馨 (失敗) (対露強硬論) 山縣有朋・桂太郎・小村寿太郎 日英同盟はロシアを仮想敵国とする攻守同盟 国内に世論 非戦論・反戦論 内山鑑三(キリスト教) 幸徳秋水、堺利彦(社会主義) 開戦論 対露同志会 日露戦争 陸軍 旅順要塞の占領―「203高地と乃木大将」―奉天会議 海軍 日本海海戦(バルチック艦隊―「坂の上に雲」司馬遼太郎 日露戦争の終結 ◆日本は、戦費の欠乏、国力の限界 (戦前からアメリカに仲介を依頼!!) ◆ロシアは、血の日曜事件など、レーニンのロシア革命が起こりかねない!!
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ポーツマス条約
アメリカに大統領セオドロ・ローズウェルトの仲介でポーツマス講和条約が行われます。(日本の全権は小村寿太郎。ロシア全権はウィテ)
●韓国に対する日本の指導権、監督権の承認
●ロシアは、清国から租借していた旅順、大根を租借
●長春以南の鉄道と付属権を譲渡
●北緯50度以南の樺太の割譲
※しかし、賠償金要求は拒否され、それに対して、日本国民は賠償金がないと反発し、日比谷の焼き討ち事件が起こっています。
つづく
参考文献:ウエブサイト「150 日英同盟と日露戦争(教科書295)日本史ストーリーノート第15話」総務庁「日本長期統計総覧」「高橋是清の日露戦争―明治官僚の剛胆と運拓殖大学学長渡辺 利夫」「第3期 経済の発展と大蔵省」財務総合経済研究所 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)写真含む等』