【中国・日本・イギリスなど】
初めに日清戦争が起こった経緯と原因を少し調べることにします。1800代には眠れる獅子と云われた満州族の清国は、イギリスで人気のあったお茶と陶磁器を輸出し大儲けしています。ところがイギリスでは清国に輸出するものがなく貿易赤字国で銀が清国に流れるだけ、貿易赤字国は通貨不足によるデフレで国内価格の下落し、このまま指をくわえているわけにも行かず、輸出するものないイギリスは、輸出入の相手が三国間(三角貿易)で行えることからイギリス、インド(イギリス植民地)、清国の間で三国の貿易が成立します。そこで、インドで麻薬のアヘンを製造し、清国に密輸します。こうした政策は「外国にお金が出て行くと損だ」と思っているイギリスが、インド経由で清国に麻薬を売り、中毒化した清国人の常習者になり、やがて廃人となりますがアヘン消費が拡大して、銀はインドの綿製品輸入を経由してイギリスへ銀が渡る仕組み(三角貿易)で、イギリス・インド・清国をまたぐ貿易商人も台頭し、清国はこの取引において大量の銀流出に見舞われ、アヘン密輸の取締り強化を図ると、やがて1840年アヘン戦争が起こりいます。
清国→イギリス(お茶・陶磁器輸出)
インド(麻薬アヘン輸出)→ 清国
インド(綿織物)→イギリス
(当時、三角貿易は合法化されていたとは云え、例は良くないいが、まさに暴力団(イギリス組)が舎弟企業(インド組)を通して中毒性の高い麻薬を売る図式で、イギリス組はタイジン企業(清国)より金品(銀)を巻き上げ、廃人をつくり、やがて麻薬を売られた世間知らずもタイジン企業(清国)が怒り、イギリス組は突っかって来る時を待ち、叩く(売られた喧嘩を買う)いたのがアヘン戦争で暴力団の常套手段を駆使すると云った、どんでもない暴力団イギリス組でした。多分、中国はGDP世界2位と力の付いた今、中国政府の行動(尖閣諸島問題など)は、いくつか理由はあると思われますが、その奥にあるのは19世紀屈辱の恨みから来る復讐に思えてならない!?)
アヘン戦争で、清国は欧米列強に次々と土地を割譲され、それまで長い間清国を中心として築かれていた国際体制が崩壊し、ベトナムやモンゴルといった周辺諸国が次々と清国から独立し、その中で朝鮮だけが、清国を宗主国として服属する姿勢を維持していました。そして、その朝鮮では開国派(日本派)と鎖国派(清国派)の争いが起き、通商を求めたフランス船やアメリカ船を撃退したという事実から朝鮮国内では主流は鎖国派でした。
(日本は明治8年(1875)に開国を渋る朝鮮に対し、江華島に威嚇砲撃し開国を迫り、これにより死者が出たことから、朝鮮は日本への態度を軟化せざるを得ず、翌年には日本との間に日朝修好条規を締結し「朝鮮は独立国であり、清に服属する必要はない」という項目を認めさせます。明治17年(1884)には開国派(日本派)の朝鮮の独立党の金玉均が日本の支持を受けてクーデター(甲申政変)を起こします。これは清国が朝鮮王朝を支援したためすぐに鎮圧。日本と清国はこの時に天津条約を締結、「朝鮮に介入する際にはお互い了承を得た上で行動しよう」という約束が出来上がります。)
(天津条約:1884年に朝鮮で起こった甲申政変により緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。この条約によって日清両国は朝鮮半島から完全に兵を引き、以後出兵する時は相互に知らせることを義務付けます。暗に約束を破られれば戦争だと云う事です。)
この時代、何故、日本政府は朝鮮に対し、影響を及ぼそうとしたのか?実は、この時、日本だけでなく、ロシアがアジア進出を狙っていたからで、放っておいたらロシアが朝鮮を侵略し最終的に日本を攻撃する恐れがありました。そこで日本は朝鮮を清国の属国である状態から独立国として主権を主張させ、清国から切り離す必要でした。
(日本は本来、清国・朝鮮を武力で攻撃する気はなかったのですが、両国が頑迷に協力を拒否していて、しかも清国は日本を仮想敵国としてフランスから艦隊(北洋艦隊)を購入し、日本の長崎に威嚇砲撃など、侵略行為を続けます。その頃、朝鮮では、親日派の皇后閔氏(びんし)政権と対し大院派(国王高宗の父の一族)がクーデターを起こした1882年の壬午軍乱、1884年の甲申政変、そして農民が起こした東学党の乱(甲午農民戦争)が1894年に起こります。とうとう国民の不満が爆発し、鎖国を守ってきた朝鮮は清国と日本の介入を許すことになり、東学党の乱を受けて、朝鮮王朝の親日派だった皇后閔氏が清国に応援を求め、この行為は天津条約違反だったので日本は清国・朝鮮双方を批判、しかし頑迷に旧来の秩序体制を維持しようとする清国および朝鮮は日本の言うこと聞かず、日本軍は遂に漢城(ソウル)で皇后閔氏に今一度開国を迫り、皇后もこれには同意せざるを得ず、日本軍は朝鮮半島に駐留することとなり清国軍を迎え撃つこととなりました。)
(東学党の乱:東学農民運動(甲午農民戦争)や東学農民革命と呼ばれています。この暴動の処理を巡って、大日本帝国と清国の対立が激化し、日清戦争に発展しました。また、大日本帝国は清朝勢力の強化を恐れると同時に朝鮮に出兵した。この時の天津条約に基づく動きも日清戦争の発端へつながる。)
(日清戦争図)
日清戦争に至る経緯は、かねてからフランスより購入した北洋艦隊の強さを日本に見せびらかしていた清国に対し、日本政府は、明治27年(1894)7月17日に清国との開戦を閣議決定し、23日に朝鮮王宮を事実上占拠して高宗から朝鮮独立の意志確認と清国兵追放の依頼を引き出し朝鮮独立の意志確認と清国兵追放の依頼を引き出し、大義名分を得て7月25日の海戦と28日の陸戦に清国駐留部隊を駆逐しソウル周辺を勢力下に置いた日本は、8月1日に清国に対して宣戦布告します。
(日清戦争の戦費:2億3,340万円(現在の価値に換算して約2兆3,340億円)。開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当した。(因みに清国からの賠償金は日本円で3億6千万円)前回にも書きましたが、松方正義は前首相ながら無役で、伊藤と井上が「富豪から『戦勝後に国債と引き替える』として献金を募る」という提案をしたのに対し、「善意で献金した人間が『所詮国債目当て』と白い目で見られる」「政情の変化で国債に引き替えられなくなったら政府が国民を欺いたことになる」として「いっそ最初から国債を売った方がよい」と述べ、井上と論争の末「松方の案がもっともだ」と井上が言ったと云われています。)
実際に戦うと清国軍は北洋艦隊の指揮官が敵前逃亡するという有様で、当時清国を支配していた西太后は政権維持のために浪費を繰り返し、軍は維持費の不足から装備も充分でなく訓練も怠る状態でした。また、海戦では指揮官が敵前逃亡し清国軍の補給線をストップなどで散々で、日本軍は続く陸戦でも清国軍指揮官も逃げ出したため勝利を収めます。しかし平壌に到着したところで日本軍の装備は限界を迎え、一時戦線は停滞せざるを得ませんでした。平壌は清国軍にとっては命綱の要塞で、ガトリング砲などの万全の装備を整えていて、日本軍は苦戦を予想されますが、装備万端で余裕綽々のはずの平壌城から突如白旗が上がり、何と平壌城を指揮していた葉志超が自分の命欲しさに降伏してしまいます。
(日本の戦艦)
清国側もこれは想定外で、日本軍は引き続き平壌救援のために派遣されてきた艦隊を黄海で撃破、この時も清国側の指揮官は撤退してしまい、北洋艦隊の足並みは終始乱れっぱなし、特に、メンテナンス不足だった北洋艦隊は自分が撃った砲弾によって自分の船が壊れるという有様で、清国はこれによって欧米列強に加わり、さらに日本からの圧力にも脅え、戦意喪失し敗戦します。完全な終戦は台湾の平定を終えた明治28年(1895)4月17日に日本全権(伊藤博文・奥宗光)と清国全権(李鴻章・李経方)によりに締結され、日清講和条約(下関条約)で11か条の付属議定書に調印し終結しましす。
(日清講和条約)
(伊藤博文と李鴻章)
日清講和条約の中で日本は、清国に朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させたほか、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、また、前出の巨額の賠償金(銀2億両(テール)(日本円で3億6千万円))を獲得します。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放す事になり、戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、受け取った賠償金は国内産業の発展に活用されて日本は本格的な工業化の第一歩を踏み出します。日清戦争の原因は、日清両国が朝鮮への影響力を拡大しようと狙っていたことでした。
(三国干渉:日清戦争の日本の勝利とそれに伴う下関条約により日本に割譲された遼東半島を、明治28年(1895)4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が、日本に対し清国に返還するよう要求した。その勧告内容は「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」もので、こうした干渉に対し、首相伊藤博文は列国会議開催による処理を提案したが、外務大臣陸奥宗光は会議によってさらなる干渉を招く恐れを主張し、イギリス、アメリカ、イタリアなど他の列強の協力で勧告を牽制し、撤回させようと目論んだが、イギリス、アメリカが中立を宣言したため、5日本は勧告を受諾します。日本では勧告を受諾した政府に対して世論は激しく反発したが、日本政府は国民反発に対し対ロシア敵対心に振り向け軍拡を進め、三国干渉は日露戦争のきっかけに直接・間接の影響を与えました。)
この項おわり
参考文献:お金の歴史「日銀の貨幣博物館」他、ウエブサイト「145 朝鮮の動向と日清戦争(教科書288)日本史ストーリーノート第14話日本史ストーリーノート第14話」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)写真含む等』