【インフレ→デフレ】
明治の歴史は、中学校で習ったかどうかは覚えていませんが、“松方”と聞くと「松方デフレとか息子幸次郎の松方コレクション、同世代の俳優松方弘樹、そして農民の困窮と金持ち優遇、格差社会!!」と、今までは耳学問で断片的で味噌も糞も一緒という認識でした。今回、これを書くにあたり、コロナ禍で部屋に籠り時間が有り余っているので、youtubeの講義形式の「日本史B」の予備校動画で少し勉強したつもりです。動画に映る黒板の授業が懐かしく、しかも良く分らないところは戻して再度見るとか、理解ができない時は、別のyoutubeを見る等、すごく便利ですが、後期高齢者の手習いですので理解力不足や思い込み過多などで客観的な理解が得られているか疑問が残ります。間違いがあれてばご指摘戴きお教え戴ければ幸いです。
明治10年(1877)に西南戦争が起こると、政府は戦費を補うため民間の国立銀行が政府紙幣(不換紙幣)を大量に発行します。その結果、激しいインフレと国際収支の悪化により正貨(本位貨幣・銀貨)の流出が起こり、物価が騰貴し財政は破綻に瀕することになります。このような財政の混乱や経済の不安定化は、近代産業の健全な発展を阻害するもので、そこで登場したのが松方財政でした。
(松方正義)
(インフレの中では、米価をはじめ農産物の価格がかなり上昇します。しかも地価と地租率(3%)は固定されていたので、地租の負担は相対的に軽くなり、農民の生活は楽になりましたが、生産しない下級士族の困窮はいちだんと激しくなっています。インフレ=インフレーション、デフレ=デフレーションの略)
明治14年(1881)に参議兼大蔵卿(のち大蔵大臣)になった松方正義を中心に、インフレの収拾と安定した貨幣·金融制度により財政の立て直しを目指し紙幣整理がはじまります。そして緊縮財政を実行して歳出を切り詰め、増税で歳入の増加をはかり、その余剰金で正貨(本位貨幣・銀貨)を買入れて、回収した政府紙幣(不換紙幣)を消却します。これによってインフレは収拾しようとしますが、米価をはじめ農産物が売れず不景気になりデフレに陥ります。
(松方正義は、政府紙幣(不換紙幣)の増発が財政経済危機の主な原因であると考え、不換紙幣の整理と正貨(本位貨幣・銀貨)の蓄積による兌換制度の確立による解決をめざします。徹底した緊縮財政と、官営工場の払い下げ、酒造税の引き上げなどを行って増収をはかり、また、海外荷為替資金として政府紙幣(本位貨幣・銀貨)を輸出商へ貸付け、その売上金を正貨(本位貨幣・銀貨)で領収して、兌換制度のための準備金の増加をはかり、政府紙幣(不換紙幣)の発行を縮小させ、意識的に政府紙幣(不換紙幣)の整理を進めます。それにより深刻な不況と物価の急激な下落で「松方デフレ」が起こりました。因みに“デフレ”は、モノに対してお金の価値が上がっていく状態で、モノが売れず不景気になります。その反対の“インフレ”は、いわゆるモノに対してお金の価値が下がり景気が良くなります。インフレ率2~3%までをしのびよる(クリーピング)インフレと云いそれ以上になるとバブルをまねくとされています。)
(創業時の日銀、永代橋ぎわ)
しかし、松方は、明治15年(1882)10月に日本銀行を創設し、通貨信用制度の確立を図ります。銀貨と紙幣の格差が解消するのをまって、翌明治16年(1883)には国立銀行条例を改正し、これまでの国立銀行を徐々に普通銀行にするとともに、紙幣発行権を日本銀行に集中させ明治18年(1885)から兌換券を発行。翌年から日本銀行券の銀兌換も始まり、ここに銀本位の貨幣制度が確立します。
(日本銀行券兌換券)
また、明治15年(1882)、本格的に政府の緊縮財政を進められると、農村に深刻な不況をもたらし、米をはじめ農産物価格の下落は著しく、地租は相対的に重くなります。そのため残酷にも一般の農民の間には、生活が苦しくなって土地を手放して没落して、自作農民の中には小作人や都会に流れ込む者も現れ、農民層の分解が進み、寄生地主(金持ち地主)制が進行し農民の貧富差が拡大し、寄生地主等が会社や工場を作るなど資本主義の基盤が形成されていきました。
(農民層の分解は明治16年(1883)に全国の農地のうち小作地が35.5%だったのに、9年後の明治25年(1892)には40、1%に増えたといいます。また、地租5〜10円を納める人の数は明治14年(1881)には93万人だったのが、明治20年(1887)には68万5000人に減り、地租10円以上を納める人の数も減っているので中農層までが没落しています。このようにして、1880年代の深刻な不況を通じて資本の原始的蓄積が強力に進行し、少数の地主・富農・富商などに資金が集中するとともに、資本主義の発達のために不可欠な労働力が農村のなかに生み出される条件が出来上がりつつありました。今の日本はデフレを脱出していないけど、金持ちはより金持ちにというのはよく似ているかも・・・?)
参考 民権運動:明治6年(1873)征韓論を主張して敗れた板垣退助らが、野に下り征韓派勢力を結集します。明治7年(1874)1月に愛国公党を結成し「民撰議院設立建白書」を左院に提出し東アジアで初となる国会開設の請願を行ったことに始まる運動が起こります。 (藩閥政府による専制政治を批判し、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、明治23年(1890)の帝国議会開設頃まで続きました。) 自由党:明治14年(1881)板垣退助を党首として結成されました。 (特色は、主権在民、一院制議会、普通選挙などのフランスの民権思想の影響を受けたもので、農村の中小の地主や貧しい農民層、士族など幅広い人々に支持されました。)
(大隈重信)
立憲改進党:明治15年(1882)大隈重信を党首として結成されました。 (特色は、立憲君主制(君主はいるが権限が憲法で制限されている)、二院制議会、制限選挙(一定以上の財産を持つ人だけに選挙権がある)などのイギリスのような議会政治を主張しました。大地主や都市の実業家、知識人などに支持されました。) 太政官制度から内閣制度:明治18年(1885)12月に、太政官制から内閣制度へ転換されました。 (内閣総理大臣の職権を定めた「内閣職権」も制定され、内閣総理大臣に広汎な統督権が認められていたが、閣僚の個別輔弼制を定めた帝国憲法に合わせるため、明治22(1889)年12月、内閣官制が定められました。) 大日本帝国憲法(欽定憲法):明治22年(1889)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、国民に公表されました。 (欽定憲法(天皇が国民に与える憲法)、伊藤博文が ドイツ(プロイセン)憲法をもとに草案を作成、ドイツを手本にした理由は、君主(天皇)の権限が強かったため。)
(帝国議会議事堂)
帝国議会:明治23年(1890)に大日本帝国憲法が施行され、公選の衆議院(下院)と非公選の貴族院(上院)から構成されます。明治23年(1890)11月29日開会の第1回議会が行われました。 (選挙権が持てた人 ①直接国税15円以上納めた人②満25歳以上③男子で当時の総人口の1.1 %の約45万人) |
(松方正義)
松方 正義:1835年3月23日〈天保6年2月25日〉- 1924年〈大正13年〉7月2日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等爵位は贈従一位大勲位公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東。明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣(初・3・5・8代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。日本赤十字社社長。
松方は年齢やキャリアからすれば薩摩閥の中核となるべき人物ではあったが、財政面以外での政治手腕には欠けるところがあった(2度の内閣がともに閣内分裂が理由であっけなく倒れた)ために軽んじられており、それゆえ派閥をまとめることが出来なかったといわれる。また、薩長元勲の中では唯一勤皇志士としての活動歴がなく、維新後の功労で元老・公爵にまで立身した。(中略)明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても、閣僚や元勲の反対の中、天皇から財政委任の詔勅を得、財政をすすめている。金本位制導入の際には、明治天皇から「導入の是非を巡る議論は難解でよくわからぬが、これまで松方が財政に関して間違ったことをやった例はなかったから導入を裁可する」とまで言わしめた。日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤博文・井上馨らに反論し、積極的に開戦を主張、蔵相に自信がないとしても自分が補佐するから財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した。この功績が明治天皇から認められ、戦後異例の大勲位受章となった。
日清戦争の時には松方は前首相ながら無役であったが、西南戦争の戦費を基準に予算を立てようとした当時の首脳部を戒め「このような時には前例などにとらわれず、勝つ為にいくら必要かの見込みを立てて、それを工面する方法を考えるべき」と主張した。また、伊藤と井上が「富豪から『戦勝後に国債と引き替える』として献金を募る」という提案をしたのに対し、「善意で献金した人間が『所詮国債目当て』と白い目で見られる」「政情の変化で国債に引き替えられなくなったら政府が国民を欺いたことになる」として「いっそ最初から国債を売った方がよい」と述べ、井上と論争の末「松方の案がもっともだ」と井上に言わしめた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つづく
参考文献:日本銀行調査局編「〈図録日本の貨幣7〉近代幣制の成立」東洋経済新報社、1973年発行 「日本銀行百年史 資料編」(日本銀行百年史編纂委員会/編纂 日本銀行 1986)「お金」の日本史近現代編 井沢元彦著 北國新聞2012年1月14日夕刊 お金の歴史「日銀の貨幣博物館」他、ウエブサイト「140 松方財政 日本史ストーリーノート第14話」他 写真などフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』