【不換紙幣→兌換券→日本銀行券(不換紙幣)】
近代的な「新紙幣制度」は、明治4年(1871)の「圓(円)」誕生の一つの中間目標で、「一里塚」ともいえます。前回も書きましたが、新貨幣制度が整備されていきますが、それと共に近代的な紙幣制度の確立が大きな課題でした。それを担ったのが、明治5年(1872)に大蔵省紙幣寮の初代紙幣頭で、今年2月よりNHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公で、令和6年(2024)度前半、紙幣(日本銀行券)が刷新される1万円札の顔になる渋沢栄一です。
(渋沢栄一)
(当時、貨幣制度の一方で、近代的な銀行制度確立のため、アメリカの「ナショナル・バンク」をモデルに明治5年(1872)「国立銀行条例」を制定し、全国で153の国立銀行が設立されます。これら国立銀行には一定の発行条件のもと、紙幣の発行権が付与されました。当初発行された国立銀行紙幣(旧券)は、政府がアメリカの会社に製造を依頼したもので、当時のアメリカの「ナショナル・バンク紙幣」の様式と類似していましたが、明治10年(1877)に寸法や図柄が一新された紙幣(新券)が発行されています。)
(左10ドル札・右10円札・ナショナル・バンクモデル)
お札(紙幣)は、本来金属貨幣の代わりであり、紙幣は本来その分の本位貨幣に交換できることになっていました。これを兌換紙幣といい、実際には、改鋳によって低品位になった貨幣や本位貨幣に交換できない太政官札(不換紙幣)も流通していました。
(近世において幕府は紙幣を発行せず、諸藩は藩内の通貨不足や財政難の打開のために藩札を発行しますが、藩札は藩内限りで通用することが原則で、幕府の発行する金銀銅貨と兌換できることになっていましたが、次第に兌換できなくなってきます。これが日本の紙幣の源流で、藩札の形状は縦長で印刷も粗雑、贋造も容易で、現在の紙幣とはあまりにも違うものした。)
(幕末の金澤藩札)
明治維新後、新政府も諸藩も財政に苦しみ、諸藩は藩札を増刷します。そんな中で貨幣贋造に手を染める場合もあり、新政府の管轄下になった府県は府県札を発行。新政府は貨幣改鋳を実施しますが、貨幣の品位は旧幕府時代にも増して低下し、前出の大隈重信の前任者である由利公正の提案で、不換紙幣である太政官札を大量に発行します。大隈重信も当初は不換紙幣を発行を引き継がざるをえず、民部省札を発行します。
(大政官札や民部省札は藩札にならったもので、その形状はやはり縦長で印刷は粗悪で藩札同様に贋造することが簡単で、この時期、藩札・府県札・太政官札・民部省札など、不換紙幣が大量に発行・流通し、このような状況はインフレを助長するだけでなく、紙幣流通そのものを混乱させていました。)
(明治通宝・ゲルマン紙幣)
大蔵省は、混乱を終息させ紙幣の統一を目指し、明治3年(1870)に、北ドイツ連邦フランクフルトにある印刷会社に紙幣印刷を依頼し、翌年末に受領し、創設間もない大蔵省紙幣寮が明治5年(1872)に紙幣へ押印し発行したもので、それは「新紙幣」または「ゲルマン紙幣」と呼ばれ、当時としては精巧な印刷で贋造困難なものでありました。この「新紙幣」と、粗雑で贋造品も混じっていた藩札・府県札・太政官札・民部省札などとを交換し、紙幣の統一を図りますが「新紙幣」も、政府発行の不換紙幣で、藩札の伝統を引き継いだ縦長の形状でした。この時の紙幣寮の責任者が、初代紙幣頭(長官)渋沢栄一でした。しかし、この不換紙幣の発行は渋沢の就任以前から決まっていたもので、政府は正貨と交換できる兌換紙幣の発行の必要性を認識していました。
(日本の兌換券:明治時代から日本銀行によって発行された、金貨(または銀貨)と交換される券でした。しかし、金本位制度(金の価値を元に「お金」の価値を決めていた制度)の崩壊とともに兌換停止となり、現行の管理通貨制度は、昭和17年(1942)日本銀行法に移行され、それまでに発行された日本銀行兌換券は日本銀行券となり不換紙幣として使用されています。)
明治2年(1869)から、通商司が管轄する東京・大阪などの為替会社に兌換紙幣としての為替会社紙幣を発行させますが、結局これらの為替会社は経営不振に陥ってしまい、また明治4年(1871)大蔵省は正貨と兌換できる大蔵省兌換証券を発行しますが、明治5年(1872)には正貨兌換をとりやめてしまいます。
(第一国立銀行)
前にも述べていますが、近代的な意味での「銀行」が発券した最初の紙幣は、「国立銀行券」でした。伊藤博文が明治3年(1870)から明治4年(1871)にかけてアメリカを視察し、民間に「国立銀行」を設置させ、国立銀行が兌換銀行券を発行する制度の創設を提唱し、これをうけて初代紙幣頭渋沢栄一が制度設計にあたり、明治5年(1872)「国立銀行条例」が公布され、民間の国立銀行が続々と設立されます。
民間銀行を国立銀行といったのは、アメリカの「ナショナル・バンク」を視察した伊藤博文が言った言葉を直訳したもので、国立ではなく民間の銀行。
(令和6年発行予定の1万円札)
(渋沢栄一:埼玉県の農民出身であり、一橋慶喜に仕官して幕臣となり、パリ万博を契機として、慶喜の異母弟徳川昭武の留学に同行し、帰国後、慶喜を慕って駿府に赴いたが、駿府藩への仕官は断り、同地で「商法会社」という民間の商会を創設し、その頭取となっています。その後、明治2年(1869)末に新政府から出仕命令が下り、大蔵省租税正(租税司長官)に任命さますが一度は任を受け入れますが、旧主慶喜への思いや駿府での商業活動へのこだわりから、上役である大蔵大輔大隈重信に辞職を申し入れますが、それに対して大隈は、「創成時代に於ける好個の手腕を発揮する位置であることを力説し、大隈一流の筆法で、それが啻(ただ)に国民に尽す当然の道である計りでなく、真の意味に於いて慶喜公に対して忠義を尽す所以である事を力説されたのである。」とあり渋沢は「グウの音も出なかった」と言ったと云う話は良く知られています。)
民間の国立銀行は、通常の銀行業務を営むとともに、銀行資本の60%にあたる額の「政府紙幣」を政府に納入し、政府はそれと引き換えに「金札引換公債証書」を交付、これを抵当として国立銀行券を発券し、資本の40%は正貨(本位貨幣)として、それを兌換準備金に充てることになった。ここに、金融機関としての国立銀行が兌換銀行券を発行する近代的な紙幣制度が創設されたのです。
(国立銀行券・1円)
(明治4年(1871)ニューヨークの紙幣製造会社に新銀行券の製作が発注し、この銀行券は、従来の紙幣とは異なって、横長の形状になり、明治6年(1873)には三井組・小野組を中心とした「第一国立銀行」が創設され、第一国立銀行券が発券されました。それを機に渋沢栄一は大蔵省を辞任し、井上馨とともに、国家財政の均衡を強く主張していたことが一つの原因ですが、辞任以前から実業の世界に進むことを志向していて、辞任直後、渋沢栄一は第一国立銀行の銀行事務総監に就任し、その経営に携わることになります。結局、紙幣の発行主体の一員となります。第一国立銀行券には渋沢栄一が署名・捺印しています。渋沢栄一の長い実業家としての第一歩は、第一国立銀行経営への参画でした。)
(西南戦争)
それでも近代的紙幣制度は多難を極めます。国立銀行条例による設置条件は厳しすぎて、明治9年(1876)までに五つの国立銀行しか設置できなかった。明治10年(1877)に国立銀行条例が改正され、国立銀行券は不換紙幣となりますが、これによって国立銀行が乱立し、同年の西南戦争による戦費調達もあってまたまた不換紙幣が乱発され、インフレを加速します。このことは、財政責任者大隈重信の勢力失墜の遠因となります。この過程で明治11年(1878)8月23日に「竹橋事件」がおこります。
(近衛砲兵大隊の将兵)
(竹橋事件:明治11年(1878)8月23日夜、皇居前の竹橋兵舎に駐在していた近衛砲兵大隊を中心に、反乱兵259名が山砲2門を引き出して蜂起ります。砲兵隊の門前を出ると、近衛歩兵第1、第2連隊が出動しており銃撃戦になり、戦闘に紛れて反乱軍は近衛砲兵兵舎の目の前ある大蔵卿大隈重信邸に銃撃を加え営内の厩や周辺住居数軒に放火。この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居に迫り、門前で天皇に直訴しようとしたが、同日東京鎮台兵の手で鎮圧され、陸軍裁判所は,同年 10月 15日に死刑 53人、準流刑 118人、その他の刑を宣告。死刑はただちに執行されます。事件は西南戦争に従軍したのに、軍は中尉以下、下士官・兵卒にいたるまで行賞されなかった事と財政困難を理由に軍の給与・官給品が削減されたことに不満をもったことなどが理由で、大蔵卿として政府財政を主管していた大隈重信は、兵士の給与等の減額につながる軍事費削減の責任者と目されていて、大隈重信邸は近衛砲兵兵舎の目の前あり、大隈重信は権力の中枢にいたから攻撃目標とされました。)
(明治18年発行の1円兌換券)
このインフレを克服するために、明治14年(1881)より松方デフレが実施され、不換紙幣が大量に償却され、明治15年(1882)には日本銀行が創業、明治18年(1885)に兌換紙幣の「日本銀行券」が発行されたのです。一方、渋沢栄一の大蔵官僚辞任により、大隈重信と渋沢栄一は政治的には道を違えますが、両者の私的な親交は続いたと云われています。大隈重信は、本邸を皇居前の雉子橋(現千代田区一ツ橋1丁目辺り)から早稲田に移しますが、雉子橋邸を明治17年(1887)に渋沢に売却します。
(雉子橋邸:明治6年(1873)に櫓門が撤去され、明治9年(1876)から明治17年(1884)まで橋内から清水門前にかけて大隈重信雉子橋邸が存在し、以後、渋沢栄一に売却されます。渋沢にすれば大隈への資金援助の意図もあったのであろうと思われます。その後も渋沢は、大隈と早稲田大学に対する援助を惜しむことがなかったという。)
つづく
参考文献:日本銀行調査局編「〈図録日本の貨幣7〉近代幣制の成立」東洋経済新報社、1973年発行 「日本銀行百年史 資料編」(日本銀行百年史編纂委員会/編纂 日本銀行 1986)「お金」の日本史近現代編 井沢元彦著 北國新聞2012年1月14日夕刊 ウエブサイト「日本の通貨はなぜ「円」なのか 大隈重信と新1万円札・渋沢栄一【前編】【後編】」お金の歴史「日銀の貨幣博物館」他、写真含めフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』