【太政官札(不換紙幣)→新通貨制度】
幕府は慶応2年(1866)近代的造幣局を翌々年に設置すると約束していましたが、新政府も、新通貨の制定が課題で、明治元年(1868)には貨幣司が置かれ、閉鎖されたイギリスの香港造幣局の造幣機械を、長崎居住のイギリス人商人トーマス・ブレーク・グラバーを通じ6万ドルで購入し、明治元年(1868)中に造幣機械が到着し、大阪にて造幣工場が建設されます。
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(初期の大阪造幣局)
明治2年(1869)に、外国官副知事大隈重信は会計官御用掛兼務を命ぜられ、外交政策のみならず通貨政策にも関わって行きます。その年、大隈重信は貨幣政策担当者とともに、新政府の議事機関である議事院に対して新貨幣について建議します。大隈は財政に熟知していたわけではなく、幕末期に英語を学んだ大隈は、駐英公使ハリー・スミス・パークスらの政治的干渉に抗して日本の主権を堂々と主張しパークスの紹介により英領インドの植民地銀行である「オリエンタルバンク」から借金するなど、硬軟両様の交渉術を身に付けた外交官でしたが、財政責任者に任用された大隈の任務は、国家財政の確立を推進しながら、欧米各国からの干渉に対応することにも大隈なりの野心もありました。
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(パークス)
しかし新政府では、自前で新しい貨幣・紙幣を発行するために、高度な鋳造・印刷技術だけでなく全国流通のための戦略と巨額の費用が必要となり、大隈重信は伊藤博文・井上馨らと共に、前出の「オリエンタルバンク」の横浜支店支配人ロバートソンと貨幣発行について協議し、本位貨幣として当時貿易決済で通用していたメキシコドル銀貨(24.36ℊ)と同品位の貿易通貨として1円銀貨を鋳造します。
貨幣鋳造には外国人があたり、監督は「オリエンタルバンク」が行い、1~2.5万ドルの多額の謝金のほか、鋳造貨幣高の0.1%の世話料を「オリエンタルバンク」に支払うことになり、結局、イギリス資本に依存した形で新貨幣は鋳造され、ふんだくられています。
(明治2年(1869)に太政官造幣局は大蔵省造幣寮に改組されたが、初代造幣頭(長官)に就任したのが井上馨で、大阪で建設されていた造幣寮は途中で火災に遭いますが、明治3年(1870)の終わりには試験操業が開始され、明治4年(1871)に操業します。その間、明治3年(1870)から明治4年(1871)にかけて伊藤博文は、アメリカで財政・金融・幣制などの事情を視察し、欧米諸国が金本位制なので日本でも採用するよう提案していますが、充分な金を確保出来ないため建前として金銀複本位制とし事実上銀本位制で補助貨として銀貨・銅貨を発行する新貨条例が、前回にも紹介した通り、大隈の提言から2年数か月後の明治4年(1871)5月「新貨幣の呼称は圓とする」という新貨条例が制定されます。)
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(明治5年の1円金貨)
新貨条例は、金貨幣を本位貨幣とし1円金貨をその原貨と定め形式上の金本位制が採用されますが、当時は東洋市場においては銀貨による対外支払いが一般的であったため、1円銀貨を貿易などの対外支払用貨幣として使用され、明治11年(1878)には1円銀貨の国内一般通用が認められ、事実上銀本位制で建前として金銀複本位制になります。しかし、もともと1円銀貨は、開港場のみの通用で、一般には通用しないものでしたが、銀量の多い1円銀貨(貿易銀貨)が市場に出回ると、利にさとい清国商人は争ってこれを手に入れ、鋳潰して利益を得たので、1円銀貨(貿易銀貨)をメキシコドルのように国際通貨として流通させようとした政府の目論見は失敗に終わり、1円銀貨(貿易銀貨)は、わずか3年程で発行をやめています。そして金貨は退蔵され新政府の不換紙幣の大量発行によって、金貨はほとんど流通しなくなります。
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(明治4年(貿易銀貨)1円銀貨)
一方で大隈は、輔相三条実美や岩倉具視ら新政府首脳たちと、貨幣改鋳中止や贋造貨幣取締を新政府に迫っていたパークスら外国公使たちに対して、新貨幣の創出を宣言するなど、硬軟両様の外交術で大隈が期待されていています。
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(若い頃の大隈重信)
(大隈重信:天保9年(1838)旧暦2月16日(3月11日)に佐賀藩の武士の長男に生まれました。藩校に入学したものの、武士の道徳を学ぶことや中国の古い書物を覚えるだけの封建的な教えが不満で退学します。その後は、藩の蘭学寮で西洋の学問を学び、元治元年(1864)26歳のときに長崎に出てアメリカ人宣教師フルベッキに英語やアメリカの憲法などを学び、西洋の思想に大きな影響を受けます。翌年の元治2年(1865)には長崎に英学塾「致遠館」を作り、フルベッキを校長に招きます。明治新政府では、外国事務局判事として長崎に赴き、その後、大蔵省の次官として、新橋・横浜間の鉄道開通を進め、電信(電報)の仕組みを整備するなど、日本の近代化に努めました。明治14年(1881)イギリスの議院内閣制を手本にした憲法の制定と議会の開設を求め、岩倉具視や伊藤博文らと対立し、43歳のとき官僚を辞職します。翌年、明治15年(1882)には、イギリスの議会政治をモデルに立憲改進党を作り、明治31年(1898)に総理大臣となり、日本初の政党内閣を誕生させます。また大正11年(1914)に再び総理大臣となりました。優れた人材を育てるための東京専門学校もつくります。東京専門学校は後に早稲田大学と名を改めました。)
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当時は実質銀本位制ですから、銀が安くなると円も安くなり商品の価格も低下します。すると欧米の金本位制の国への輸出が行われるようになります。実際、明治に入ってからずうっと銀価格が下落し、銀を裏付けとする円も下落し、輸出が増えますが、銀が安いということは金が高くなっているわけで、金本位制の国からの輸入品の価格が高くなり、日本の物価や賃金が高くなり、輸出は増加したものの輸入品の価格は上がって輸入インフレ状態になります。
参考 明治政府の旧貨幣との交換レート 安政小判(一両) 金5,11g銀3,86g(9,0g) 明治政府の交換レート3,5円 万延小判(一両) 金1,89g銀1,41g(3,3g) 明治政府の交換レート1,3円 万延二分判(2枚1両)金1,37g銀4,63g(3,0g)明治政府の交換レート1,0円
Image may be NSFW. (万延2分判)
明治二分判は1,34g銀4,66gと品位は万延二分判よりやや落ちますが交換レートは1,0円と同じで、交換レートが万延二分判2枚の一両と同じく明治の1円になります。 (明治30年(1897)に明治政府は、金のみの本位貨幣(通貨価値の基準)とする貨幣法を公布し、金本位制が確立します。また、明治4年(1871)新貨条例からの1円1ドル、金1.5g(1米ドルに相当)を金0.75gと定められたことで1ドルが2円になりました。) 明治7年(1874)~大正14年(1925)の円相場の推移 それによると、明治7年(1874)は、1ドルは0.984円(100円は101.583ドル)、明治30年(1897)は、1ドルは、2.000円(100円は50.000ドル)大正元年(1912)は、1ドルは2.019円(100円は49.539ドル)、大正14年(1925)は、1ドルは2.451円(100円は40.801ドル)となっています。
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(因みに戦後、昭和20年1ドル20円、昭和22年は50円、昭和23年は270円、昭和24年から45年までが360円、以後変動相場に変わっています。) |
P.S
前回にも書きましたが、井沢元彦著「お金」の日本史近現代編に、大隈重信は新貨幣の呼称を「圓(円
)」ではなく「元」にしようと思っていたらしい、提言から公布までの2年数ヶ月の間に貨幣関係の中心的重要書類が焼失したので、井沢元彦氏は詳しくは分からないとしながら、幾つかの推論を上げて「元yuan」が「圓(円)yen」に変ったことを推測しています。(前回参照)もともと「元yuan」は、中国では「圓yuan」が正式な表記で「元」はそれを簡略化した「簡体」表記です。今、「人民元」と書きますが正式表記は「人民圓」です。中国では日本の「円」のことを”yuan”と発音しています。今でも「圓」を通貨の呼称にしている国が3ヶ国あり、韓国では「圓yuan」が“韓国なまり“で読むと「ウォンwon」になり、中国ではウォンのことを「韓圓(韓元)」と書き、日本円を「日圓(日元)」ですから、中国から見れば、日本・中国・韓国の通貨は同じ呼称ですが、あくまでも異なる通貨です。
(因みに、2021年2月現在:中国の1元は約16円・韓国の1ウォンは約0.09円・アメリカ1ドル=約104円)
つづく
参考文献:日本銀行調査局編「〈図録日本の貨幣7〉近代幣制の成立」東洋経済新報社、1973年発行 「日本銀行百年史 資料編」(日本銀行百年史編纂委員会/編纂 日本銀行 1986)「お金」の日本史近現代編 井沢元彦著 北國新聞2012年1月14日夕刊 ウエブサイト「日本の通貨はなぜ「円」なのか 大隈重信と新1万円札・渋沢栄一【前編】【後編】」お金の歴史「日銀の貨幣博物館」他、写真含めフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』