【江戸時代→明治維新】
慶応4年(1868)5月(新暦7月4日・旧暦9月8日より明治に改元)、明治4年の廃藩置県まで新政府は、前にも述べたように政府直轄地とした旧天領や旗本支配地等から全国の税収(約3,000石)の4分の1の約860石(860万両)しか大蔵省に納入されなく、また、戊辰戦争で多額の費用と殖産興業の資金不足から財政は追い込まれます。大政官札は、坂本龍馬の推薦で岩倉具視より新政府の財政担当者に登用された福井藩の三岡八郎(由利公正)の建議によって布告された政府紙幣(不換紙幣)で「通用期限13年間」の期限付きの太政官札(10両、5両、1両、1分、1朱の5種)総額4,897万3,973両1分3朱(実際に発行されたのは4,800万両であり、97万3,973両1分3朱は発行させずに焼却)が製造、発行されました。
(三岡八郎と横井小楠像・福井市大手2-10福井城内堀公園内)
(藩政期の福井城図)
(三岡八郎(由利公正:ゆりきみまさ):文政12年(1829)、越前国福井城下に生まれ、嘉永6年(1853)に家督相続し、福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学び橋本左内らと国事に奔走し、藩主・松平慶永から財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建させています。明治4年(1871)に東京府知事に就任。明治5年(1872)5月、岩倉使節団の随行に加わることになりアメリカ、ヨーロッパへ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究。明治7年(1874)、板垣退助や江藤新平らと共に政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。明治8年(1875)に元老院議官に、明治20年(1887)5月24日に子爵に叙せられる。明治42年(1909)4月28日、脳溢血のため東京市芝区高輪の自宅で死去。79歳没。)
(三岡八郎)
(坂本竜馬)
拙ブログ
藩政期の一両が1円になるまで・・・⑤
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(復元された福井城山里口御門(廊下橋御門)
国民は紙幣に不慣れであったことや、政府の信用が強固では無かったため、流通は上手く行かず、太政官札100両を以て金貨40両に交換するほどで、このため新政府は、太政官札を額面以下で正貨と交換することを禁止し、また、租税および諸上納に太政官札を使うように命じ、諸藩に石高貸付を命じるなどのいろいろ方法を講じます。当時、これらの政策や二分金の贋物が多かった事などから、信用が増加し流通するようになりますが、今度は太政官札の偽札が流通し始め、真贋の区別が難しかったため、流通は再び滞るようになます。
(太政官札)
新政府は明治2年(1869)5月の布告で、太政官札の発行を3,250万両に限定し、さらに「通用期限を5年間」に短縮し、もし期限に至って交換未済のものがあるときはこれに対し1年で6%の利子を交付することを約束します。実際の使途は、発行された太政官札の過半は政府の歳入不足の補填に使用されており、残りは、明治元年(1868) 1 月の鳥羽・伏見の戦いを端緒とする戊辰戦争遂行のための戦費調達で、新政府には当時、十分な軍用金がなく、その補填策としての不換紙幣の発行だったのです。
(大隈重信)
明治2年2月(1869)外国官判事兼会計御用掛大隈重信の建白により、造幣局が設立されることになります。三岡失脚後は大隈が幣制改革を主導することになり、大隈は同年5月には輔相三条実美に対し、通貨単位を両から圓(円)に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を方形ではなく円形とすることなどを建白し、了承されますが、実際に新通貨「圓(円」が施行されるまでは、この後2年数ヶ月の歳月を要することになります。
大隈重信らの提言により政府は明治4年(1871)新貨条例を制定し、通貨単位を「両」から「圓(円」に切り替えて本位貨幣を金貨とし、明治17年(1884)に公布された兌換銀行券条例により、日本銀行は、銀本位制のもとで、銀と交換ができる「日本銀行兌換銀券」を発行しました。もっとも、金本位制度は、中央銀行(日本銀行)が、発行した紙幣と同額の金を常時保管していなければなりませんので、明治維新後から金本位制度を設けようとする動きはあったのですが、十分な量の金を確保できずに断念。なし崩し的に銀本位制度になっていましたが、日清戦争(明治27年(1894)7月~明治28年(1895))が4月に勝利し、明治30年(1897)に賠償金(銀2億両(テール)(日本円で3億6千万円)を元手に銀本位制から金本位制に移行し、金兌換券(「日本銀行兌換券」)となります。因みに、賠償金は当時の日本の国家予算の4年分。戦費2億円を上回り、85%が軍用に使われ、明治30年(1987)1部は官営の八幡製鉄を設立に使われています。
昭和6年(1931)には、日本銀行券の金兌換が停止されました。その後、昭和17年(1942)の日本銀行法制定によって、兌換制度が廃止され、管理通貨制度に移行します。
(余談:新貨幣制度の大隈案では新通貨制度の呼称は「圓(円)ではなく「元」で2年数カ月の議論の末「元」が退けられて「圓(円)」になったらしく、その経緯は良く分からりません。その理由は、明治5年2月と明治6年5月の旧江戸城内の2度の災禍で、明治4年までの貨幣関係に中心的重要書類が焼失してしまった。(「円の誕生」三上隆三著、講談社刊)と井田元彦著「お金の日本史近現代編8」北国新聞2021・1月14日夕刊に記載されています。もっとも、圓(円)は、日本語では「エン」と発音しますが、中国語では「圓」と「元」は同じ発音になり、字画が多く書き難いため「元」になったとあり、日本では何故「圓」と呼ぶようになったかというと、世界のすべての貨幣は「圓(円)形」であったからだろうとあり、それに比べると日本は非常に珍しい国で、長方形の金銀貨を使っていて、幕末に日本に来た外国人に4隅が折れやすく不評だったことも有り、また「元」は日本を苦しめた中国の王朝名で、縁起が悪いと新政府の偉いさんが敬遠したのではないかと井田元彦氏が推測されています。)
明治政府は、明治4年(1871)「新貨条例」を制定し「1圓(円)は1両と等価。当時1圓(円)=1ドル」とします。「円」の1/100を「銭」に、その1/10を「厘」としました。それに基づいて、金1.5g=1円とした近代洋式製法の新貨幣が発行されました。政府は明治5年(1872)4月1日(新暦1872年5月7日)より旧藩札・太政官札・民部省札と新紙幣(明治通宝)の交換が開始され、明治6年(1873)3月・7月の大政官布告により、金札交換公債証券(記名証書、1,000円、500円、100円、50円の4種。利札証書、500円、100円、50円の3種)に換えて回収する方針をとりますが、公債証券に換えられたのはごくわずかで、大部分は新紙幣(明治通宝)との交換だったと云われています。
(明治通宝)
P.S
横井小楠と三岡八郎(由利公正):安政5年(1858)、小楠は福井藩主松平慶永(春嶽)に賓師として福井に招かれ、「国是三論」を建言して藩政の殖産貿易に大いに功績(農民に藩札を貸し生糸の生産を奨励し成功)をあげ、それに続いて松平慶永(春嶽)が幕府政事総裁職に就任すると「国是七条(こくぜしちじょう)」も建言して幕府の内政や外交に影響を与えました。横井小楠の福井での一番弟子三岡八郎(由利公正)が起草した「五か条の御誓文」にも小楠の理念が盛り込まれています。幕末、小楠の名声は高く、意見を求めて訪れる者の中でも、勝海舟の使いで坂本龍馬は福井に3度も訪問していて、坂本龍馬は「俺の師は勝海舟、その海舟先生の師は横井小楠である」と話したことに対し、勝海舟は「俺は今までに恐ろしいものを二人見た。一人は横井小楠、もう一人は西郷隆盛である」と語ったという逸話が残っています。明治維新後、新政府は小楠を参与という位として京都に呼び、新政府の中心人物岩倉具視は多数の参与の中でも特に小楠を頼りに相談していたという。しかし、明治2年(1869)1月5日、太政官に出仕して退朝する途中に6人の勤皇派(きんのうは)に襲われ、短刀を抜くも力尽き倒れた。享年61歳。墓は京都南禅寺に葬られています。
(横井小楠)
つづく
参考文献:日本銀行調査局編「〈図録日本の貨幣7〉近代幣制の成立」東洋経済新報社、1973年発行 「お金」の日本史近現代編 井沢元彦著 北國新聞2012年1月14日夕刊 ウエブサイト「国是三論より学ぶ!龍馬、松陰が敬愛した独立自尊の教え!」 お金の歴史「日銀の貨幣博物館」より「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等