【金沢→東京】
「家禄」は明治9年(1876)8月の金禄公債証書発行条例で、すべて公債に置き替えられて打ち切られます。「秩禄処分」は、例えば20円の家禄を受け取っていたものは、その10年分の200円分の公債の形式で与えられ、それで打ち切られるもので、政府にも資金がありませんので分割払いの形となりました。政府が士族に対して、今風に云えば「ローン」を組んだという形で、最終的には明治35年(1902)まで掛かりました。
金禄公債証書とは、明治維新で、秩禄処分の一環として、禄制の廃止により強制的に禄を廃止したすべての華族・士族にその代償として交付された公債の証書です。明治3年(1870)から自主的に禄を返上したものに交付された、前回記載の“秩禄公債”とは別物です。
(金禄公債証書)
(秩禄処分:明治政府が明治9年(1876)8月に実施した秩禄給与の全廃政策で、秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。 旧大名家は、公債額の算出根拠となる家禄が旧藩収入の十分の一や、華族となることで様々な恩恵を与えられ、また、旧大名家は東京居住を強制されることから旧家臣団から切り離された中、支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な例とされています。)
版籍奉還の原因の一つに、各大名家が持っていた膨大な負債がありました。それは「藩債」に置き替えられ、さらに廃藩置県を経て、国家に付け替えられました。こうしてかつての大名家の負債は消滅しました。こうした「債務」はどうなったのだろうか?それらは大蔵省管轄に移り、当時の大蔵大輔(大臣)井上馨のもとで処理されました。そして、井上馨はこうした膨大な債務を“ほぼ全額踏み倒し”ています。
(井上馨)
(井上 馨:天保6年-大正4年(1835-1915)幕末・維新から明治・大正初年にかけての政治家。本姓は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老。幼名は勇吉、通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多など。嘉永4年(1851)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。なお、吉田松陰が主催する松下村塾には入学していない。安政2年(1855)に長州藩士志道(しじ)氏(大組・250石)の養嗣子となり、一時期は志道聞多とも名乗っています。両家とも毛利元就以前から毛利氏に仕えた名門の流れを汲んでおり、身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、比較的毛並みのいい中級武士であった。農商務、内務、大蔵の各大臣を歴任、1901年には組閣の命をうけたが失敗し、晩年は元老の一人として政界に臨んだ。詳しくは Wikipedia)
江戸時代中期以来、各大名家は深刻な財政難となっていて、大坂の両替商から「大名貸」を受けたり、領内の有力商人や領民から御用金を徴収するなどで凌いでいました。藩内でのみ流通する「藩札」の発行は重要な手段でした。ところが、幕末の混乱と戊辰戦争出兵は各大名家の財政破綻を招き、このことが、版籍奉還の大きな背景でもありました。
こうした大名家の負債は、版籍奉還の結果成立した「藩」にもちこまれます。財政の大きな柱であった「藩札」の発行が禁じられ回収・処理が命じられます。秘かに発行されていた贋金の鋳造なども禁止され、藩札・藩債は各藩の責任で償却することが求められますが、各藩では、家禄の減額など厳しい改革により負債の軽減に努めていますが、明治4年(1871)、廃藩置県で藩は消滅し、各藩の債務は、家禄とともに明治政府に移り、各藩から引き継いだ債務残高は、藩債7413万円(約1兆4,826億円)、藩札3,909万円(約7,818億円)、さらに外国にも400万円(800億円)の借り入れがありました。
(明治初の1両=1円で、1円は現在の2万円として換算しました。)
藩債の処理は明治6年(1873)3月に方針が決定されます。その新旧公債証書発行条例では、新政府は藩債を3種類に分割されます。
①明治元年(1868)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上
年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)
②弘化年間(1844〜1847)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する
(旧公債)
③天保年間以前の債務については江戸幕府が天保14年(1843)に棄捐令を発令したことを口実に一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)
藩札は、廃藩時の時価によって政府の紙幣と交換された。藩債のうち外交問題になりえる外債は、すべて現金で償還された。藩以外の旗本・御家人などの債務は償還対象外とされた。
(朝敵となった江戸幕府による債務は発生時期を問わずに、外国債分を除いてすべて無効とされた)
維新後に新立あるいは再立が認められた朝敵藩の負債は新立・再立以後の負債のみが引き継がれ、それ以前のものは無効とされた。
その結果、届出額の半額以上が無効を宣言されて総額で3,486万円(約6,972臆円)(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。
新公債は、西南戦争の年を除けば毎年償還され、明治29年(1896)までに予定通り全額が償還された。旧公債も、予定通り大正10年(1921)に償還を完了しました。
踏み倒し?のからくり
天保年間以前の全借金(多くは借り換えを繰り返しているので膨大な金額に上る)幕府・旗本・御家人関係、さらに「朝敵藩」の借金は「踏み倒し」。その他の藩の借金も慶応以前の分は無利息50年賦で、約4000億円が「踏み倒され」ました。旧公債1120億円も利子なし50年払いだから「踏み倒し」に近いと云われています。
(志道聞多と名乗っていた井上馨)
しかし、幕府も諸大名も旗本御家人も倒産し、大名貸を行ってきた大阪の両替商も多額の不良債権を抱え34家あった両替商も23家が破産・絶家の災厄に遭遇し、現在、云うところの“債務放棄”“支払い延長”“支払い”に分類するとしっかりと履行されているとし「民事再生法」に当てはめ、非常事態だから仕方がなかったとされる説もあるが、残念ながら、「連鎖倒産」した「銀行」も多くあり、端迷惑なトンデモナイ話でした。“井上馨恐るべし”
参考文献:参考文献:「明治前期における旧加賀藩主前田家の資産と投資意思決定過程―藩政から華族家政へ―」神奈川大学教授松村 敏氏の論説、「石川県史」第4編(1931年)、「稿本金沢市史」政治編第一(1933年)石林文吉「石川百年史」(石川県公民館連合会、1972年)ブログ日本近現代史中継「版籍奉還・「藩」・「家禄」、そして「あさが来た」より 写真 Wikipedia等。