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明治維新の前田家財政③武士の処遇

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【金沢→東京】

武士にとって、俸禄をもらうことは当たり前のことであり、俸禄をもらうために先祖代々将軍や藩主に忠誠を尽くしてきたもので、その権利を簡単に手放せるものではない。そもそも武士は、他に収入を得る方策を持っていなかったので、俸禄がなければたちまち食っていけなくなります。しかし明治新政府にとって、武士に払う「秩禄(家禄と賞典禄)は大きな負担となっていました。国家支出の3割にも上っていたのです。明治新政府は、きちんと教育を受けた新しい軍隊新しい官僚組織をつくろうとしており、もう世襲の武士たちには用はなく、一刻も早く、近代国家として整えたい明治政府にとって、秩禄というものは大きな障害になります。

 

禄高:与えられる俸禄の額のこと。俸禄:大名に仕えた者が受けた給与(扶持)秩禄:明治新政府が華族・士族に与えた家禄と賞典禄。家禄:家に代々伝わる俸禄。)

 

 

武士の秩禄は、明治維新時にすでに大幅に削減されています。上級武士ならば7割程度中下級武士も3割から5割程度、削減されていました。明治初年の時点で、武士の報酬は江戸時代から比べれば、半減かそれ以上の削減をされたのです。明治3年(1870には、武士から農民や商人になるものには、士族から除籍し一時賜金として禄高の5年分を出すという制度をつくっています。

 

 

また秩禄を奉還するものには、禄高の3年分を一括支払いし、樺太、北海道移住者には7年分を一括支払うという制度をつくっていますが、ただし、新政府には金がないため、支給は半額を現金、半額を公債証書としています。公債は8%の利子が付き、3年間据え置いた後、7年間で償還されるものでした。

 

 

 

拙ブログ

版籍奉還と金沢藩

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12339671093.html

 

明治維新後、士族30万人、その家族を含めると150万人位いたと推測されます。実際の所、その3分の1「藩」「府・県」あるいは太政官などの官にかかわる仕事に就いたと考えられます。もっとも薄給なのが小学校の先生で、武士は読み書きができるので、仕事を求めやすかったと思います。こうした仕事によって「官禄」と呼ばれる収入をあわせて得ることができました。次の3分の1は、武士の商法と云われて「起業」します。実際には土地を買って百姓になるという例などが多く、商業などで成功したものもいましたが、残りの3分の1はうまくいかず、不平士族となります。こうした人たちが反乱を起こしたりしたのです。

 

(確かに、士族のかなりの部分が官吏、とくに巡査や教員に転職していったということは確で、「起業」はしたものの大失敗に終わったという人がもっと多く、幕末や明治維新の武士の生活困窮状態からみれば、社会の底辺に消えていった士族はかなり多かったのではと考えられます。また運動家としての不平士族は、残りの3分の1よりも、3分の2位はいたように推測されます。)

 

 

明治6年(1873)には、この士族除籍制度をさらに拡充し、百石未満の元下級武士に対し、秩禄奉還した場合は、永世禄のものは禄額の6年分、終身禄のものは禄額の4年分を一時支給することにした。翌年には、百石以上のものにも、同様の制度が設けられています。これは今風に云うと早期退職奨励金のようなもので、「6年分の報酬を一度に支払うから武士をやめなさい」という事のようです。しかも、新政府には金がないため、支給は半額を現金、半額を公債証書とし、公債は8の利子がつき、3年間据え置いた後、7年間で償還されるものだったと云います。

 

 

 

つづく

 

参考文献:参考文献:「封建社会崩壊過程の研究(江戸時代のおける諸侯の財政)土屋喬雄著 弘文堂書房 昭和24月発行「明治前期における旧加賀藩主前田家の資産と投資意思決定過程藩政から華族家政へ」神奈川大学教授松村 敏氏の論説、他「石川県史」第4編(1931年)、「稿本金沢市史」政治編第一(1933年)石林文吉「石川百年史」(石川県公民館連合会、1972年)


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