【金沢→東京】
幕末から明治初期の前田家は、慶応2年(1866)に加賀藩主前田斉泰公(1811~84)は長男慶寧公(1830~74)に家督を譲り、慶寧公が最後の藩主となります。明治2年(1867)の版籍奉還を経て明治4年(1871)夏、廃藩置県により慶寧公は東京に居を移し、秋に父の斉泰公も上京します。慶寧公は明治7年(1874)5月に病没し、長男利嗣(1858~1900)は前年末に留学先のイギリスから急遽日本に呼び戻され、満16歳で家督を継ぎ、東京・根岸(現台東区)の別邸に隠居していた斉泰公は利嗣の後見人として家政に大きな影響力を持ち続けます。東京邸として、明治4年(1871)6月に本郷の加賀藩邸上屋敷10万3千坪余(富山藩邸・大聖寺藩邸を含む)の西南部1万5,668坪(現東京大学経済学部・東洋文化研究所付近)が与えられますが、中屋敷巣鴨邸2万坪余や下屋敷平尾邸(板橋区加賀付近)21万坪余などすべて上地となりました。
(赤門)
(石川門)
もっとも巣鴨邸は、願により2年半後の明治6年(1873)8月に468円(930万円)で払い下げられ、その後前田家は巣鴨邸を明治17年(1884)まで所有します。根岸邸は、明治4年(1871)年12月に建物・庭園を含めた4,500坪余を4,100両(4億1千万円)で購入・改築し、斉泰公が翌明治5年(1872)2月に移り住みます。本郷邸は明治元年の上野戦争で焼失していたため、慶寧公とその家族も同年4月に根岸邸に移り本邸とします。根岸邸の購入理由については、齊泰公が「新たに給付された土地もいずれは再び上納を命ぜられるものと判断し、その時に備えた」ものとされると云っています。明治初年の流動的な状況のなかで、疑心暗鬼の状態だったと思われ、しかし慶寧公没後、家督を継承した利嗣は明治7年(1874)12月に根岸邸から仮藩庁を改修した本郷邸に入り、以降大正末期まで再び本郷邸が前田家本邸となっています。
(前田慶寧公)
(倒幕直前まで幕府支持派であった加賀前田家は、とくに政治情勢が不安定な明治初期頃、行動選択に苦慮し、慎重に生き延び策を模索していたようです。江戸時代を通じて同家は正室を多くは徳川家から迎えていたが、この頃、子女を幼少時に旧領の有力寺院に縁女として送っていて、明治3年(1870)後半には離縁させて摂家・宮家などに嫁がせています。慶寧の妹洽姫は、越中城端善徳寺住職の縁女としていますが、離縁・復籍させ、明治10年(1877)に摂家の二條家に嫁がせ、同じく慶寧の末妹坻姫は越中高岡勝興寺が熱心に所望して同家の養女としていたが、明治8年(1875)に引き取って和談とし、明治14年(1881)に旧広島藩主浅野長勲の養嗣子長道に嫁がせています。さらに利嗣の妹慰姫は、明治3年(1869)に越中井波瑞泉寺の縁女となりますが、やはり、明治8年(1875)に離縁させて明治13年(1880)に有栖川宮威仁親王妃となります。戊辰戦争直後頃にはまだ先が読めないため、金沢藩前田家の影響下にあった有力寺院に籍を移しておくことが安全と考えられていたらしく、前田家は本郷邸上地の可能性を考慮して根岸に別邸を建てたように、将来を見通しかねています。しかし明治4年(1870)代も半ば頃になると明治政府の統治力も安定しつつあり、婚姻戦略の変更のみならず、家の祭祀も仏式から全面的に神式に改めため、明治初年頃に大名華族が仏葬祭から神葬祭に改典した例は少なくなく、とりわけ旧大藩大名において顕著だったと云われています。旧大藩大名こそ政府や社会から注視され、とりわけ倒幕期に朝廷側につくのが遅れたことがその後も長く影響を受けた前田家は天皇家や新政府に忠実に行動することに徹し、全面的に天皇制国家になびいていったものと思われます。
(縁女:幼少女を将来、跡取りの妻にする目的で入籍させること、「許婚者」旧民法施行前の制度。)
明治初年頃における前田家の金融資産全体を示す史料は、金禄公債交付の直前の明治9年(1876)7月初頭のもので、本郷邸および前田家金沢事務所の用弁方を合わせて、現金・貸金・公債を合わせて90万円(現在の約180臆円)、この他、円換算が困難な古金銀が2万両程度でした。明治8年(1875)の天皇家資産(御資部財本)は51万円(約102臆円)とされているから、前田家はこの頃、皇族華族の中で最大の金融資産を有していた可能性があります。そして現金は、後述のように明治10年代後半には邸内にあまり置かず、大半を第十五国立銀行や日本銀行等に預けるようになりますが、この時期には信頼に足る金融機関の設立が少なかったためであろう、大半を本郷邸や金沢用弁方に保管されていました。その原資は、なによりも明治2年(1869)以降受領したはずの毎年6万7千石余の家禄・賞典禄1万6000石、およびそれらが支給される以前の藩政期に蓄積し継承した資金が考えられます。
(明治4年(1871)の廃藩置県頃にどの程度過去の資産を継承したのかを調べて見ると、明治4年(1871)8月11日に最後の藩主(7月まで知藩事)慶寧公は多くの旧臣・旧領民に見送られながら金沢発、9月5日に東京本郷邸に着きますが、その時、一行はさしあたりの「平常」金3千両(約6,000万円)と道中用に別に1千両(約2,000万円)を持って出発し、道中用1千両のうち500両余は使用せず残り、そして3千両を金沢為替会社東京店に利子付預金とし、あわせて3,500両(約7,000万円)を「平常方振込金」としたと云われています。)
明治4年(1871)の時点で、前田家所有資金は東京邸にはあまりなく、藩財政と区別される個人資産の「御貯用金」は金沢にあったと云われていますが、その金沢にあった「御貯用金」も大した額ではなかったようです。明治2年(1869)の版籍奉還により前田家は金沢藩歳入高63万6,876石の10分の1である6万3,688石(約12臆7,000円)を家禄として受けることになった(このほか賞典禄1万5千石があるが、実収は4分の1である3,750石(約7,500万円))が、早速、種々多額が出費されています。明治3年(1870)11月には、「建言」により太政官造営のため政府に2万石(約4臆円)の献納をするなど出費が嵩みます。
(いずれにしても、明治4年(1871)9月の出費が500両(約1,000万円)とあり、手元資金が「残少」としている点から、この時点で同家所有資金は東京邸にはあまりなく、藩財政と区別される個人資産の「御貯用金」は金沢にあったものと思われ、9月4日には先代の斉泰公が金沢を発して東京に向かうが、慶寧公と同じく「御持金」3,000両(約6,000万円)のほか道中用1,000両(約2,000万円)を持って出発し、こちらは道中1,300両余を支払ったので,2,700両余が残った。そのうち2,500両(約5,000万円)を同じく「会社」に利子付預金としています。9月20日には「御姫様(礼姫・衍姫)」も東京邸に到着しますが、この時は道中「御持金」だけでは足りず、斉泰公の持込金によって支弁し、さらに不足の場合は預金を取りくずして支払う予定であると、東京から用弁方に書状を送っています。このように、この頃東京邸ではかなり出費が嵩み,深刻な資金難だったようであり,10月14日には「越金」は2,400両(約4,800万円)しかなく、平尾邸の材木代2,000両(約4,000万円)を政府が弁済してくれると聞いているが、差し支えているので1,000両(約2,000万円)でもいいから入れてほしいと政府に頼んでいます。)
(前田斉泰公)
前田家の明治初年の個人資産は、後まで所有していた古金銀約2万両とあわせて、多めにみてもせいぜい4~5万両(約8臆~10臆円)ほどが、売却換金したものを含めて藩政期から継承した個人資産だと思われます。しかし、それは前田家が大資産家への成長する基礎となるものではなく、近代には有数の華族大資産家となる前田家は、明治初年からほとんど1からのスタートだったことは確かで、明治6年(1873)から明治9年(1876)までの4年間、時代の相場により家禄・賞典禄代収入から始まったものと思われます。
(明治初の1両=1円で、1円は現在の2万円として換算しました。)
つづく
参考文献:参考文献:「封建社会崩壊過程の研究(江戸時代のおける諸侯の財政)土屋喬雄著 弘文堂書房 昭和2年4月発行「明治前期における旧加賀藩主前田家の資産と投資意思決定過程―藩政から華族家政へ―」神奈川大学教授松村 敏氏の論説、他