【金沢】
加賀前田家の財政は、すでに天明5年(1785)の時点で、銀11万貫(約1,848億円)金18万両(約183億円)米34万石(約340億円)合計今のお金で約2,371億円の負債がありました。この金額は加賀藩における15年分(1年分として約158臆円)の赤字だと云われています。このように江戸中期より、加賀藩はその内政面においても既に窮迫しており、幕末には藩外の大勢は着々王政復古に傾き、ついに慶応3年(1868)、将軍慶喜は「大政奉還」で、天正11年(1583)前田利家公が初めて尾山城主となって以来、14代藩主慶寧公に至るまで280余年間にわたる藩政治下の加賀国支配は終ります。明治2年(1869)6月、政府は天皇の名において版籍奉還し、全大名を改めて地方官として知藩事に任命し、その旧領を管轄地として預け、加賀前田家では公式の藩名金沢藩に定めます。
明治2年(1869)の金沢藩借財調べ
地廻(金沢)の御借財
元金 金9万3,300両+銀5,132貫 利息 金6万5,035両+銀145貫 |
東京御借財
元金 金 31万8,400両 利息 金 3万3,828両 御旧借年賦当たり金5,216両 |
大坂御借財
元金 銀6万3,761貫 利息 銀2,359貫 |
合計
金74万6,395両2朱3分 約746億3,950万円 |
上記の借財高は天保6・7年(1835・36)の藩債整理以後のもので、わずか30年間のものであると思われますが、その間藩士より年々5万石ほどの借知をしたことも有り、また、藩札発行の利益があるにもかかわらず生じたもので、当時の財政は逼迫していたものと思われます。
(参考:一両(金)=60匁(銀)=4000文(銭)=米1石=10万円として換算。)
版籍奉還が施行された理由の一つに「それぞれの大名は、膨大な「赤字」を抱えていて倒産寸前の企業を手放すようなものであった」と云われていますが、この点についてはそういった側面もあると思われますが、版籍奉還の発案と実施を決めた薩摩の大久保利通と長州の木戸孝允らが藩主を説得に行ったという点から考えても、やはり政府側が主導権をもって、諸大名の支配地域へ新政府の政策(中央集権・富国強兵)を浸透させることにあり、実質的な中央集権・富国強兵の実が上がらず、明治4年(1871)4月、廃藩置県に引き継がれます。
(もともと加賀の前田家は代々朝廷を崇(あが)める「尊王」が絶対的藩是(はんぜ)でありましたが、徳川政権が朝廷から征夷大将軍として権威を付与された現実にもとづいて、約280年間幕藩体制に忠実に従ってきたので、よく言われている単なる日和見ではなく、慶応3年(1868)になって慶喜が突如朝廷に大政奉還(幕府の政権放棄)したため、前田家の幕府支持根拠は崩れ、ハシゴがはずれてしまい、時代は前田家に止まらず、各藩も動向が読めず右往左往した藩が大半だったようです。加賀藩は地理的に京都の朝廷と江戸の幕府の中間に有り、朝廷、幕府ともに姻戚関係が濃く、しかも全国最大の大藩なのでその動きが絶えず注目され、戊辰戦争は幕府側として行軍するが、越前で官軍優勢情報から、一時、加賀に引き返しますが、最終的には新政府軍側として戊辰戦争に参戦し明治維新に至ります。)
封建藩政制度の解体で明治維新を迎え、慶応3年(1867)10月、将軍慶喜は太政を奉還し、約280年にわたる江戸幕府と鎌倉幕府以来続いた700年にわたる武家政治が終わり、明治2年(1869)版籍奉還で政治の大権が天皇に移り、明治新政府がつくられると同時に、藩はなくなり、これに代わる府県は旧藩領をそのまま踏襲され、その長官である知藩事にも旧藩主がそのまま任命され、実質的な中央集権の実が上がらず、明治4年(1871)4月の廃藩置県に至ります。廃藩置県では、知藩事たちからの反対も強く、知藩事たちに納得してもらうべく新たに華族という貴族の身分を用意していたこともあり反対の数を減少させることになりました。
(また、当時の全国の石高は約3,000石、政府直轄地(府、県)とした旧天領や旗本支配地等から4分の1の約860石。差額の約2,140石は、新政府の所有ですが、これらの石高は藩によって消費され、大蔵省に納入されない「府藩県三治制」で、国の財政は追い込まれ中央集権を目指した新政府は藩から徴税権・兵制も取り上げ2年後に廃藩置県が施行されました。)
拙ブログ
版籍奉還と金沢藩
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12339671093.html
明治維新と金沢②武士から士族へ
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11793690245.html
脱線:廃藩置県後の加賀は金沢県、大聖寺県が明治4年(1871)11月に、加賀一国が金沢県となり、能登一ヵ国と越中射水郡を合わせて七尾県が成立し、明治5年(1871)2月、金沢県を石川県に改め、同年9月7日になって七尾県を合併してほぼ現在の区域をもつ石川県が成立します。最終的に現在の区域が決定したのは明治16年(1883)でした。県庁ははじめ金沢に置かれたが、途中明治5年(1872)から6年にかけてしばらくの間、美川町に移りますが、この時美川町の属する石川郡の名をとって石川県としています。当時の県の長官は「県令」と呼ばれたが、明治4年初代金沢県令として着任したのは薩摩出身の内田政風で、現在のように県知事が県民の選挙でえらばれるようになったのは第二次大戦後のことで、それまでの県知事は中央政府の官吏として派遣されて来ました。
つづく
参考文献:「封建社会崩壊過程の研究(江戸時代のおける諸侯の財政)土屋喬雄著 弘文堂書房 昭和2年4月発行「明治前期における旧加賀藩主前田家の資産と投資意思決定過程―藩政から華族家政へ―」神奈川大学教授松村 敏氏の論文、他、「石川県史」第4編(1931年)、「稿本金沢市史」政治編第一(1933年)石林文吉「石川百年史」(石川県公民館連合会、1972年)