伝説・伝承
【江戸】
江戸中期になると江戸の町方推定人口50万人に達し、幕末には町方推定人口150万都市に発展します。諸大名は参勤交代という軍務を建前とした人質制度から軸足を江戸に置くようになり、必然的に家臣団の江戸詰も増加し、江戸での経費も増大します。加賀藩も江戸中期、藩全体の予算は下記の通り約50%に達し、やがて60%を超えます。
藩政期の加賀藩年間の各都市消費高
| 金沢 | 江戸 | 京 | 大坂 | 合計 |
元禄9年 (1697) | 4602貫 約77臆円 | 5489貫 48% 約92億円 | 1158貫 約19臆円 | 288貫 約5臆円 | 11,534貫 約193臆円 |
寬保2年 (1742) | 3694貫 約62億円 | 6244貫 48% 約105億円 | 3098貫 約52億円 | 215貫 約4億円 | 13,251貫 約223億円 |
宝暦4年 (1754) | 4440貫 約74億円 | 7046貫 50% 約118億円 | 550貫 約9億円 | 2118貫 約36億円 | 14,154貫 約236臆円 |
・銀1貫=167万円
加賀藩家臣団の江戸詰は、寛政10年(1798)の史料によると、藩士の上・中・下をあわせ2,824人。その他に200人を超える奥女中らが御守殿や奥御殿に居住しています。さすがに最大の外様大名の江戸屋敷らしく大人数ですが、御三家の尾張藩や紀州藩は5,000人を超えたとされ、また、大老や老中職を勤める譜代大名も、その職務遂行するため多数の家臣を江戸屋敷に置いています。
(加賀藩では、元禄9年(1695)5代藩主綱紀公の帰国(交代)に際し、随行した総人数が6,780人の記録があります。江戸中期以降の随行人数は2,000人~4,000人の間とされ、元禄9年(1695)の総人数6,780人が最大とされていますが、聞くところによると総人数の内2,007人は日用人足であり、その中に交代道中のみの臨時に雇われた者が多数含まれていた可能性があります。しかし、それを差し引いても相当の人数が藩主在府時に江戸の滞在していたものと考えられます。少なくとも、元禄時代には100年後の寛政10年の時点より江戸詰人が多く居たものと思われます。)
≪加賀藩の江戸藩邸≫
藩政期、幕府は大名との主従関係を明確にし、中央への権力集中を図るため、諸大名の妻
子を江戸に居住させ、参勤交代を義務付け、そのため諸大名は、江戸に居住するための屋敷地を幕府から拝領し、藩の江戸役所としての機能も含む藩邸とします。加賀藩の江戸藩邸は、慶長 10年 (1605)、3代藩主前田利常公が家康より和田倉門外の辰口に屋敷を賜ったのが始まりです。その後、明暦 3年 (1657)・天和 2年 (1682) の大火による焼失、拝領の上地を経て、天和 3年 (1863) には、本郷に上屋敷、駒込に中屋敷、平尾(板橋)に下屋敷が定められ、ほか、江戸で売買・消費する米を収納した蔵屋敷が深川黒江町にありました。この蔵屋敷は、幕府から拝領した土地ではなく、町人などの地主から藩が買い上げたもので、これを抱屋敷といいます。
(これより前、慶長 5年 (1600) 以来、芳春院が人質として江戸に在ったが、その時代の邸宅の所在ははっきりしなく、元和 2~3 年(1 617~8) 頃には、本郷に屋敷地を拝領してこれを下屋敷とし、辰口邸を上屋敷と定めています。)
加賀藩の江戸屋敷(17紀末より幕末まで)
上屋敷 (本郷) | 10万3,822坪 | 御殿空間(表御殿・奥御殿・庭園)詰人空間(長屋・家族住居)。 |
中屋敷 (駒込) | 2万0,660坪 | 柳沢吉保の中屋敷に上地を命ぜられ2万坪が残る。 |
下屋敷 (平尾) | 21万7,635坪 | 本郷から2里。中山道板橋宿沿、石神井川を取り込む。 |
蔵屋敷 (深川) | 2,668坪 | 深川にあり居住者の生活を賄うため大量の飯米を貯蔵。 |
(この敷地には、支藩の富山藩(1万1,088坪)大聖寺藩(5,762坪)に貸与していました。)
藩士らは、本郷屋敷内の長屋に集住しました。その配置された場所は表長屋(外長屋)と内長屋とに分かれます。表長屋は屋敷の外囲いを兼ねており大抵の場合は瓦葺きの2階建てで外部にその姿を見せているため、各藩とも外観の見栄に気を配り、それに対し内長屋は平屋のものが多く、加賀藩本郷屋敷の場合は江戸後期のなっても板葺き屋根のものが少なくなりますが、藩士たちはその長屋の中に禄高に応じて間口数間分の居住スペースを貸与され、従者としてともに居住します。
(本郷の上屋敷の江戸詰藩士らは、勤番者(1~2年在府)の多くは単身で長屋の居住、定府(常府)は、江戸常住で独立住居(または長屋)に家族で居住しています。)
本郷の上屋敷は、中山道と日光御成道の分岐点の近くにあり、駒込の中屋敷と平尾(板橋)下屋敷はそこから中山道に向かった道沿いに配置されていました。加賀藩の参勤交代の際、中山道を通行することが多く、この2つの屋敷は江戸当着前の休憩地として利用されました。
≪平尾(板橋)下屋敷≫
平尾(板橋)下屋敷は延宝7年(1679)中山道板橋宿近くの平尾村に設けられ、本郷屋敷より2里(8km)近くの隔たりで、21万坪を超えて広大な屋敷地であるが、時折訪れる藩主らの休息所や僅かな役所・長屋のほか建築物がほとんどなく、石神井川を内部に取り込んで造成された大庭園と竹木林、そして田畑が広がっていました。
拙ブログ
板橋区の金沢➀
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12145275615.html
参考文献:参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 1993年4月発行 「江戸のミクロコスモス・加賀藩江戸屋敷」追川吉生著 新泉社発行「江戸の大名屋敷」編者 江戸屋敷研究会 (株)吉川弘文社 2011年2月発行(写真は石川県立歴史博物館・金沢市立玉川図書館・Wikipediaなど)