つ【中央通町】
幕末から明治の郷土史家森田柿園著「金澤古蹟志」の旧藩普請会所旧記に、旧傳馬町・旧法船寺町(明治4年から昭和40年まで旧寶船路町)辺りから旧藺田町・旧物吉町の中央までが石川郡中村の地域で、昔は三千石あまりの大村で、藩政初期に村落は追々町地に広めていので、この辺も犀川左岸への転地が命じられ、産土神の中村春日社も川向かいに転地させられます。しかし、元の地に残った氏子が、元車の辺りに社殿を造立し、中村春日社の別社とし、神霊を中村春日社より勧請し、別当の寶久寺がここを奉仕したと有ります。
(昭和通りに分断されたベイジュの建物が馬場跡)
(昭和通りの下・左側の建物が馬場跡)
(明和5年(1768)5月29日の犀川洪水で、春日別社に社殿がことごとく流水し、仮に河原に草社を造立したとあり、幾多の変遷を繰り返し、明治元年(1868)神仏分離令により、別当寶久寺空信は復飾して神職になり犀川神社になったと書かれています。詳しくは後に書く犀川神社の項に譲ります。)
(延寶の金澤図・法船寺と馬場)
旧西馬場町
調馬場の近辺は、藩政期、すべて惣名を馬場と呼んでいます。明治廃藩の後には、調馬場をことごとく廃し、地所を払下げ、土居を壊し町地にし、家屋を建築して、町名を西馬場町とし、一方の浅野川馬場跡を東馬場町と呼びました。
犀川馬場跡 この馬場は、古名は法船寺馬場と称し、法船寺の尻地なるゆゑなるべし。奮藩中は犀川馬場・浅野川馬場とて、両馬場共に藩士の調練(馬)場なりしなり。三州志来因概覧附録に、犀川馬場、いにしへより法船寺馬場と呼べり。此の馬場の由来起本も知れず。是も國初よりあるか。延百七十間表五間半一條なり。土居高き事九尺也。とあり。平次按ずるに、延寶の金澤図には、長さ百六十八間(約305m)幅七間三尺(約14m)とあり。此の馬場は浅野川の馬場と違い、一條の馬場たりしかど、土居の上の巨大の老松連植して、松風調馬の馬足と共に聞え、木蔭の風致を存すといへども、明治廃藩の後、悉く伐採して、土居も朽ち、地所も悉く払下げと成りて、今は邸地と変じ、馬場の遺状絶えたりけり。 |
そして9尺の土居の外は、元祿9年(1696)の地子町肝煎裁許附によると犀川馬場片原町とあり、後にはこの町名絶えたとあり、昔は馬場の片側の町家をそう呼んでいたと伝えられています。
(上は古今金澤・+印の広見・下の写真は現在)
(犀川筋河原伝説:藩政期は、馬場の尻地の犀川の河縁の通りを惣名河原と呼んでいます。金澤俳優伝記に、売婦と有るのは、犀川筋河原に、また、寺町の笹下町、浅野川にては母衣町に芸者の中には玉川の松吉・矢はぎやの吉松・あり若の松などの有名芸者がいて、それぞれ大に繁盛したという。犀川河原では、当時のはやり歌にも「ばん場通れば二階からまねく」と唄われているのは、調馬場の土居の傍の小家共の事で、芸妓共の居住所が有ったという)
(現在の旧下川除町)
改作所旧記に載せたる寛文10年(1670)9月、里子請人証文の奥書に、右里子長助請人平澤村丸右衛門・傳馬町後川除之上太郎右衛門両入共云々。とあり。この時代はいまだ川除町の名なかったという。元祿9年(1696)地子町肝煎裁許附には、犀川川除町と見へ、昔は川上より川下まで、すべて川除町と称したと云う、寛政7年(1795)2月大橋辺りより寶久寺辺りまでを、犀川下川除町と唱へ分け、金澤町合所留記に載っています。この時より上川除町・中川除町・下川除町と称すようになりました。
(犀川下川除伝説:三壺記に、寛永7年(1795)6月、前田肥後喧嘩の事を記載された條に、法船寺町はその時分川除で、その外は家もなく河原で、また、寛永8年(1796)4月火災の後、法船寺は犀川の下河原を寺地に賜わり、寛永の頃まで‘法船寺町の通り筋は河原で、法船寺移転の後、河原に築き出し、さらに川除の堤防が出来、享保12年(1727)の咄随筆に、東美源内吉岡の火矢射に、ある夜4~5人連れで犀川に出かけると、ムラムラと蝶のようなものが幾つも飛び交っていとので、追いかけ飛び上り、弓で叩き落とすと、寛永通宝の銭が落ちて来たという咄が載っているという。)
犀川神社
この神社は、明治維新まで俗に寶久寺の春日と呼ばれていました。旧傳馬町、旧法船寺町(明治以後寶船町)馬場(明治以後西馬場町)辺りなど、市中1,700余戸の産土神で、この神社は、中村の中村春日社の別社で、以前は修験派山伏寶久寺が中村春日社と共にこれに兼勤しています。
(犀川神社)
(中村神社の由来に、平成21年に御鎮座1,100年を迎えた中村春日社で、貞享2年(1685)の由来書には「往古より中村に鎮座していたと伝がある」と記されていて、中村とは、石川郡中村で、元は犀川右岸の大きい村で、旧町名の宝船寺町、長土塀・高儀町・大豆田他、犀川右岸(中洲)の村落だったという。藩政初期、町地の拡張政策により現在の左岸に村の移し、お社も一緒に移転しました。とあり犀川神社の由来と合致します。)
(中村神社の拝殿の天井絵)
≪寶久寺来歴≫
伝説によると、元祖勘蔵院窓峰法印は、犀川紙園の別当願行寺の元祖勤堯院の弟で、兄弟は尾張荒子の生まれ前田利家公と同郷の幼なじみで、利家公が金沢に入城した頃、兄弟で金沢に来て浅野川小橋の岩根町前田監物の旧邸の地内を賜り、兄弟の住居としたが、この地が御用地になり召し上げられると、兄勤堯院は泉寺町願行寺(最近廃寺になった八坂神社)へ移住し、弟勘蔵院は中村春日社の別当になり、元町の地に居住します。勘蔵院の次を地蔵院と称し、地蔵院の次を蓮花院といい、その寺号を寶久寺と号し、中村・犀川両春日の別当になり、明治元年(1868)に復飾し葛城慎吾と改称し、寶久寺の寺号を廃し、修験派の山伏の旧習を一新して、神殿を改正しました。
(別当:本来の意味は、「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味であり、「寺務を司る官職」です。別当寺は、本地垂迹説により、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていた。神仏習合の時代から神仏分離令の明治維新に至るまで、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれました。)
(御影橋の下の犀川河原)
西御影町
前回も書きましたが、この地は、寶久寺河原と称した犀川の河原で、慶応三年(1867)卯辰山を町地にした頃、新川除を築出し、卯辰山と犀川河原の両所を一時に町地とし、藩は営業が出来るように図ります。それにから共に競って家屋を建て、商業の営みよって、明治3年(1870)7月卯辰山を東御影町と名付け、この河原の築地を西御影町と呼び、東西両町遠隔ですが、卯辰山卯辰神社の氏子としますが、明治6年(1873)夏に命有り、西御影町は犀川神社の氏子地になり、その後、西御影町は一時繁盛しますが、明治13年(1880)5月28日、この地より出火し、家屋が多く延焼し、後に再造しない邸地も多く、田畑になり町は衰微したなどと、「卯辰山開拓禄」や「金澤古積志」に記載されています。
(現在の旧西御影町)
(旧西御影町・卯辰山開拓図より)
≪延命院遺跡≫
西御影町の下、犀川河原の端の馬場先に、昔、ここは延命院と云い山伏がいました。この
山伏は、犀川春日の別当寶久寺の弟子で、明和9年(1772)犀川洪水で、その春日の社地が
流失し、この延命院へ遷座し、今の社殿再建までここに鎮座したという。しかし延命院は明治2年(1869)復飾し、延村久見と改称し、紳職と成りますが、後にこの地を退去したと「金澤古蹟志」に記されています。
(googleマップの中央通町)
つづく
参考文献::「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 金沢市公式HP 「卯辰山開拓禄」開拓山人(内藤誠齋)著 明治2年2月発行 「古今金澤」金沢の古地図と観光アプリ 株式会社エイブルコンピュータ など