【中央通町】
旧法船寺町の初見は、寛文11年(1671)の九十歳者書上帳に法船寺町の乗物屋弥兵衛の母妙徳が90歳になり扶持米を賜はった記載があり、また、元祿9年(1696)の地子町肝煎裁許附に法船寺町とあります。明らかに町内に法船寺があったことによるものです。明治4年(1871)戸籍編成町名改正に際し、法船寺町を誰が言い出したのか?“お目出たい寶船のみち”と書き「寶船路町」となります。これは明治維新で浮かれ夢を見たのか、同じように御坊町を“五つの寶”と書き「五寶町」と同様で単純な語呂合わせで、明治の郷土史家森田柿園は“実に事実に齟齬(そご)し、古実を失えり”と嘆いています。何故か、現在の中央通町
は、お目出度くはありませんが、敗戦後の役所は固有名詞(明治の改正のそうだったのかの?)を避け、何処からもクレームが出ないように意味もうんちくもない、何処にでもある無難な町名が命名されたのでしょう。まさに冥名?です。
(九十歳者書上帳:寛文10年(1670)8月、貧窮裕福に関わらず男女90歳以上の高齢者に養老扶持米(男1日玄米5合・女3合)を与えています。これが加賀藩における養老の制の始まりで、この制度は藩主の養父保科正之の施政から学んだものです。「御算用場御定書・九十歳以上御扶持方被下候儀御定」)
≪法船寺町来歴≫
今の法船寺の辺りは、すべて犀川の河原で、人家もなく市外の閑地で、寛永8年(1631)の火災後、犀川橋爪(旧古寺町の角)にあった法船寺は、この河原の荒地へ移転を命ぜられ、初めて寺地を設け、造営し、その近辺を町地として、追々町家を建て、商店を開き、町名を法船寺町と呼ばれるようになります。「三壺記」の寛永6年(1629)6月前田肥後喧嘩の條に、法船寺は、その時分、犀川川除の旧五枚町から旧古寺町へ入る角辺りあり、寛永8年(1631)4月14日、犀川橋爪法船寺の門前町2軒の間より出火し、折からの南西の風(フエーン現象)で、金沢城も城下町を含め6000戸が焼け落ちます。これを契機として、城内に水を引くために「辰巳用水」が造られたと云われていますが、その時、法船寺の薬師堂から燃付き、客殿・庫裏に移り、河原町一面に火が廻り、強い南風で大橋を焼落し云々とあり、火事後、法船寺は犀川の下、河原に寺地に賜はり仏殿を造営したとあります。
(三壺記:前田家5代藩主綱紀公の宝暦年間(1751~1763)の頃、切米34俵(17石)の加賀藩の割場宰領足軽の山田四郎右衛門の著作で、三壺聞書とも云う。当時、足軽以下の文身分が低いものは文盲であったはずなのに、国史や藩政史に精通していたのは、藩主綱紀公の文化政策が藩内に浸透していたことが窺えます。宰領足軽は、藩の公用荷を運搬に同行する足軽の役職で、士分ではなく、奉公人に近い身分だったそうです。)
(延宝の金澤図・石川県立美術館蔵)
佛海山法船寺
このお寺は淨土宗で、貞享2年(1685)の由来書には、大納言前田利家公が尾張の国より北国金沢に移られた頃、法船寺の開祖念譽一公上人を召し連れて来たと云われています。二世近譽深公上人の母堂正樹院は2代藩主利長公の乳母にあたり、その後、利長公のご意向で、利長公が金沢に在城の頃、犀川橋爪に寺地を賜ります。三壺記によると、2代近譽の寛永8年(1631)4月14日犀川橋爪法船門前二間の間より出火します。前出の有名な「法船寺焼け」です。焼け出された法船寺は、奥村因幡を以て、犀川下中村河原に30間(約55m)の35間(約64m)の寺地を賜り移転し仏殿を造営したのが現在地で、いったん寺地を返上しますが、元禄14年(1701)九世正誉覚弁上人が再び当地においてお堂を建立します。その時、建立した建物が当時の物かは分かりませんが、明治に書かれた森田柿園の「金澤古蹟志」には建立当時のもだと書かれています。薬師堂は大槻伝蔵の屋敷の式台を移築したものと聞きますので、これは宿題にしておきます。
(法船寺は初め、尾張の国犬山にありましたが、開祖念誉一公上人は前田利家公および二代藩主利長公に従い、越前府中(武生市)越中守山(高岡市)、富山と移った。慶長4年(1599)利長公の金沢移城に伴い、現在の犀川橋爪(旧古寺町の角)の地を拝領します。)
≪法船寺の安置されている尊像≫
森田柿園の「金澤古蹟志」によると、「尊像は、甚だ古沸なりとあり、縁起では、奥州藤原秀衡入道の持佛堂に安置した古仏で、その持佛堂を“光堂”と称し、この仏は「光明佛」と呼んだと書かれていて、仏像は前田利家公が得て信仰していたと云われ「法船寺開祖の念譽上人に付託した」と書かれています。
(光明佛は、奥州藤原家の3代秀衡の持佛堂“光堂”に有ったものだそうで、持佛堂のある中尊寺は、藩政時代、仙台藩の旧領で、元文3年(1738)の秋、徳川吉宗将軍より穿鑿(せんさく)の書付の書面によると、中尊寺の藤原三代の棺が納めてある納堂の本尊阿弥陀仏など諸仏11体の内、阿弥陀仏一体が100年程前に盗まれたと書かれていて、それが法船寺の「光明佛」ではないかと云われています?)
(薬師堂)
法船寺薬師堂
延宝6年(1679)5月の縁起によると、法船寺鎮守薬師佛は、2代藩主利長公が高岡在城の頃、夢の中で1人の僧が現れ、射水郡守山の麓萩ヶ谷に薬師佛が埋もれていて、衆人の病悩を救うと云われ、急いで掘りだすよう数度云ったというので、不審に思いながら掘らせたので、薬師の座像1尺8寸(約54㎝)の石像を掘り出され、利長公は奇異に思いながらも持佛堂を建て安置し「萩ヶ谷の薬師と号し信仰したと云われるもので、片岡孫兵衛由緒書に、法船寺二世近譽深公上人の母堂は前田利長公の乳母で、その薬師如来像を利長公が母堂正樹院にお預けになったものと同佛とあると伝えられています。薬師堂は、加賀騒動で有名な大槻伝蔵の屋敷に有ったという式台だったと云われています。
(古今金澤より)
(写真は、旧西馬場のはずれ、法船寺の尻地辺り)
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 金沢市公式HP 「藩政期の長寿と福祉」中島勇著、平成18年度「石川の博士」論文集より「古今金澤」金沢の古地図と観光アプリ 株式会社エイブルコンピュータ など