伝説・伝承
【中央通町】
森田柿園(平次)が書かれた「金澤古蹟志巻21」の法船寺萬日講傳話に、「咄随筆」や「続漸得雑記」が登場します。「咄随筆」は、柿園の先祖森田盛昌が書かれたもので、享保11年(1726)5月、金澤法船寺常念佛三萬日の回向に大阪阿弥陀寺の隠居等譽上人が来て数十日の説法があり、紺紙金泥の六字名号を人々に授けた話や”八百屋お七”の話などが書かれ、また、父森田良郷の「続漸得雑記」や江戸時中期の講釈師の馬場 文耕の書いた「江都著聞集」にある“八百屋お七”の伝説は、興味をそそる話に書かれていたので、今回は眉に唾しながら紹介します。
(萬日講(万日回向):仏教で、その日に参ると一萬日分の功徳があるとする法会。別に長期間供養念仏を続けるのを萬日供養といった。回向は、自分が積んだ善根の功徳を、自分のためではなく、他の人のために回して向けることを言います。)
(法船寺本堂)
八百屋お七伝説
享保の頃、金澤法船寺存譽上人は、江戸の駒込吉祥寺の俗に小姓吉三郎(江都著聞集では、旗本の2男山本左兵衛)が故あって円乗寺に住まいし、かの八百屋お七と浮名を流し、世をはかなみ出家し、浄土の門に入り、碩学の聞こえ高く、説法の能弁は布留那?の再来と云われ、その頃、もてはやされたと云う。これは、どうも等譽上人「咄随筆」とも存譽上人「続漸得雑記」とも言われていますが、定かではないとあります。当時、この話は世間では良く知られていたと云われていますが、これは事実とは違うと書かれています。
(法船寺山門)
法船寺萬日講講傳話によると、八百屋お七の親は、加賀の足軽山瀬三郎兵衛というもので、寛文年中に浪人して町人となり、駒込追分の戦行寺?門前に八百屋を出し、八百屋太郎兵衛と名乗ったと云う、天和元年(1781)丸山本妙寺より出火して類焼し、親子3人、新店舗が出来るまで、小石川円乗寺でしのぎます。
(八百屋お七の木版画・Wikipedia)
娘のお七は、お寺に同居していた小姓吉三郎(佐兵衛、庄之介など諸説あり)と恋仲になり、やがて、店が出来て家に帰ったお七は、火事になればまた逢ると思い、家に火をつけたと云う「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」の話は、事件の3年後に出版された井原西鶴の「好色五人女」にデッチ上げられ、脚色され文学や浄瑠璃、狂言で広く知られるようになりますが、これは浄瑠璃、狂言の話で、史実は藪の中、その虚構では、その名を憚り小姓吉三郎と云うのは、吉祥寺前に居た悪者で、後に彦三郎と云ったいう。
そして、金澤法船寺に残る話は、浄瑠璃、狂言により言い出された俗言より起こったと云われてますが、当時、金沢には俗言を事実と思う人が大く居たと云う、大阪の阿弥陀寺の隠居等譽上人の素晴らしい説法と金沢法船寺大火と江戸の大火がダブらせ、お七の父が加賀の人だ等と、ある人が言いふらしたものと思われます!?
(森田柿園と妻)
(「咄随筆」は、森田柿園の先祖森田家4代目の森田小兵衛盛昌が享保11年から12年(1726~27)かけて書かれたもので、親戚縁者や同僚・友人知人等から聞いた日常の興味をそそられる色々の話、珍しい話、不思議な話等々をまとめたもので、柿園(平次)の父にあたる森田家9代の森田良郷が「続咄随筆」を著し、さらにご子孫にあたる鈴木雅子氏の『金沢のふしぎな話 咄随筆』、平成21年(2009)12月に『金沢のふしぎな話II「続咄随筆」の世界』が刊行されています。いわば森田家が300年、代々筆の立つ家柄のなせる業なのでしょう。)
(鈴木雅子:郷土史家。1928年東京生まれ。旧制東京大学文学部卒。石川郷土史学会会員。著書に『「咄随筆」本文とその研究』(風間書房)など。)
拙ブログ
広坂通りから柿木畠③柿木畠と森田柿園
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12401943857.html
江戸初期の書家井出松翠(正水)の寓所
「金澤古蹟志」によると、法船寺伝説に云う。昔、書家井出正水、藩主綱紀公のお召に依り、金澤へ下向滞在中は、当寺に寓居す。と書かれています。今、本堂に掲げている「佛海山」の額は、正水の師佐々木志津麿の筆跡で、当時の加賀藩の寛文11年(1671)の侍帳に、二拾人扶持 書物役 佐々木志津摩 五十三歳。二拾人扶持 書物役 井出松翠 二十八歳。とあり。井出松翠は、元禄元年(1689)に45歳になり、正水と改称したとあります。初めて聞く名前なので少し知らべて見ました。
(佐々木志津磨の揮毫)
井出正水:正保元年生まれ。佐々木志津磨(一説に内田鉄舟)に師事,加賀金沢藩の書物役となる。志津磨流の書法を鈴木周水につたえた。金沢の人で、名は正水、号を松翠・臥溪などと称し、晩年は京に隠居した。また『草書淵海』を編した書家である。
佐々木志津磨:元和5年1619)生まれ。京都の人で、江戸初期志津磨流を創始した書家。志頭磨とも。通称、七兵衛、七右衛門。号は松竹堂、静庵、専念翁など。加賀国出身とあるが京都出身と云われています。江戸初期に建てられた妙成寺の扁額は佐々木志津磨の筆とされています。
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』デジタル版 日本人名大辞典など